サティーナの取った行動はフロストの契約魔を驚愕させるに十分だった。
 あの至宝が壊れることはないと思ってはいるが、とっさに力を別の方向へそらしたほどだ。
 だが、それも完璧とはいかず、わずかに上に向かっただけで、サティーナたちを確実に飲み込んだ。
 半ば呆然と契約魔はその光景を見ていた。
 サティーナが何をしたかったのかなどまるでわからない。理解できない行動にさしもの契約魔もただただ、その場に立ちすくんでいた。
「さて、サティーナはどこまで知ってるんだろうな?」
「!!」
 唐突に現れた声…いや、黒づくめの男に、フロストの契約魔は二歩後退した。
「貴様!」
「はいはい」
「お主も往生際が悪いのではないかえ?」
 もう一つ割り込んだ麗しい声に、フロストの契約魔はそれこそ凝固した。
 
「………?」
 光と風の強さに、固く目を閉じハーディスを庇って衝撃に備えていたサティーナは、それらの声に首をかしげた。
 くるはずの衝撃はなく、周りを騒がしていた風の音もぱたりとやんだ。代わりに聞こえてきたのは聞き覚えのある声。
「大丈夫か?」
 その声にそっと顔を上げる。
 見下ろしてくるのは一度だけ会った、忘れるにはあまりにも印象的な瞳を持つ男性。
 サティーナはその姿に呆然としたが、拭いきれない違和感があった。
「……どうして…」
「うん。サティーナは"ハルミス"だってことだ。なあ?」
「ならばお主が盾にならんか」
 真っ白な女性が黒い男性に向かって抗議する。
 妙に威圧感のある女性がサティーナの前に立ち、フロストの契約魔の攻撃からサティーナたちを守ったのだ。
「娘。無事なら拾うといい」
 ほんのりと青い瞳の他は白い女性が地面を指差した。
 そこにはピアスが落ちている。袋はどうやら消し飛んだようだ。
 サティーナは事態が飲み込めないまま、それでもピアスを拾うためにのろのろと歩きだした。
 フロストの契約魔はサティーナがピアスを拾い上げる様を見つめ、白い女性を見た。
「次期卿が決まったか。まさかお前が応じるとはな」
「吾の契約者として不足はないのでな。して、お主はどうする? 契約者の命を果たすか?」
 女性の言葉にフロストの契約魔は首を振った。
「私はそこまで愚かではない。それを使えるお前に私が敵うはずもない」
「待って!」
 言い残し、姿を消してしまいそうな雰囲気の契約魔に、サティーナがとっさに声をかけた。
「お母様は無事なの?」
「お前の母は無事だ。今頃ポンシェルノに帰っているだろう」
 サティーナを見つめ、無表情にそう言葉を残して消え去った。
「…よかった…」
 サティーナはほっとして、その場に座り込みそうになった。
「一件落着か…?」
 弱弱しく聞こえてきた声にサティーナは忘れていた存在に駆け寄った。
「ハーディスさん!」
 倒れたハーディスの顔色は悪かった。血の気がなく、覇気がない。
「止血だけでも、してもらえると嬉しいな」
 それでもにやりと笑うとサティーナの後ろにいた二人に声をかけた。
「だとさ。秘書の息子だ、止血くらいしてやれよ」
「吾がか? まあ、よかろう」
 そう言うと血の滲んでいる場所に手をあてた。すると、すり傷のような小さな怪我も見る間に消えていき、顔に血の気も戻ってきた。
 その様子にサティーナは安堵の息を吐き出し、女性に礼を言う。
「ありがとうございます」
「なに、よい。とりあえずここでは何だ。移動するぞ。…お主はそやつを連れてこい」
 女性は黒い男性にハーディスを指差して命令した。
 男性がそれを苦笑しつつ請け負うと、女性はサティーナの目を覆うように手をかざす。
 ふわりと空に浮いたような感覚があり、周りの音が消えた。
 視覚以外の感覚でどこかの室内に移動したことがわかった。
「さて、着いたぞ」
 女性が手を下ろすとそこは立派な屋敷の中だった。
「あの…」
「こちらだ」
 白い女性はサティーナを案内して屋敷内を歩く。
 突然の状況に何がなにやらわからず、サティーナは慌てて女性の後についた。
 途中、侍女らしき女性たちとすれ違ったが、彼女たちは一様に白い女性を見ると緊張したように動きがぎこちなく、ギクシャクと礼をとって立ち去っていった。
 そんな様子を何度か見ると、目の前を歩く女性が少しだけ振り返って呟いた。
「娘は怖くないか?」
「何がですか?」
 質問の意味がわからず、首をかしげると、くすりと笑う気配が返る。
「なるほど。あやつが気に入るわけだな」
 なんのことかわからずに、サティーナは女性の白い後姿を見ながら歩いていたが、その背中がふいと消えた。
「え?」
「お待ちしておりました」
 代わって視界に現れたのは四十代後半くらいの、ハーディスと同じ色の金髪青目の男性だった。
「あ、あの…」
 サティーナが何かを口にしようとすると男性はにこやかに頷いた。
「母君によく似てらっしゃる。どうぞ、こちらへ」
「あの! 待ってください。あなたは誰ですか? あの女性は?」
 ピアスを握る拳にぎゅっと力をいれ、緊張して問いかけた。
 その様子に男性は何を感じたのか、にやりと笑い、サティーナに一気に詰め寄った。
「!!」
 その手には銀色に光る何かを持っていたのを認識し、サティーナは反射的に後ずさったが、その腕をつかまれた。
「なるほど。勘のいいお嬢さんだ。フロスト殿がてこずるのも頷ける」
 喉元に何か冷たいものをあてられ、耳元で低く笑う男性の言葉にサティーナは冷や汗が背を伝うのを感じた。
 あの茶店での恐怖が蘇り、体が硬直する。
 ふいに、別れ際のアキードの言葉を思い出し、唇を噛んだ。
 ――ジュメル卿本人に会うまでは気を抜くな…。
 (アキード)
 いつも助けてくれていた存在は今ここにない。だからこそ、自分で立ち向かわなくてはならない。
 一度目を閉じ、呼吸を整える。
 幸い、組み伏せられているわけでもないし、首に何か当てられているが、手を塞がれているわけでもない。
「大人しくしていれば危害は…!」
 サティーナはその言葉が終わらないうちに、凶器を突きつけているほうの手を掴み、そのまま体を入れ替えた。
 ものの見事に金髪の男性はサティーナに手を背後に回され、その痛みに膝をつく。
「も、申し訳ございません! サティーナ様。悪ふざけが過ぎましたっ」
「?」
 突然の謝罪にサティーナは思い切り眉を寄せたが、自分をサティーナと知っているくらいでは手を離すわけにはいかない。
「あなたは一体誰ですか?」
 厳しく問うと、男性はこれ以上痛い目を見たくないのか、それとも自分の行動に後悔しているのか、少しだけうな垂れた。
「本当に申し訳ございません。少し悪戯が過ぎました。私はジュメル卿に仕えます、名をハーディス・ウィリアムと申します。ウェインの父にあたります」
「………は?」
 男性の後ろに立っている状態のサティーナには、その顔をまじまじと見ることはできないが、その後ろ頭は見えている。
 そういえば、初めて見たときにハーディスの金髪と同じ色だと思った…。
 無理な体勢で自己紹介をする男性に、サティーナはゆっくりと思考をめぐらせた。
「ハーディスさんのお父様ということは、おじい様の秘書ですよね?」
「はい。ここはそのジュメル卿の屋敷になります。あの白い女は次期卿が契約した魔種です」
 あの状態で現れ、ここに転移できたのだ。当然魔種であるとわかりそうなものだが、そこは言うに及ばず。
 少し放心しているサティーナの思考が元に戻るのを待って、ハーディスの父と名乗る男はさらに続ける。
「サティーナ様が今お持ちになっているピアスは"フォンデスの宝冠"と呼ばれる、代々ジュメル卿となるものが継いできたものです。その力はヴィーテル国領内にいることを条件に力を発動できるのですが、サティーナ様はハルミスとしての力のほうが強く、ジュメルと認識されなかったため力の解放がなされなかったようでして……」
 長々と説明する彼の話は、ジュメルに近い者でしかわからない情報だろう。
 そのことで、彼の身分が正しいものと物語っている。
 サティーナは一気に体の力が抜ける気がした。
 手を緩めると男性はほっと息をついて、姿勢を正した。
「もっと早くに手を打てればよかったのですが。ある男の話によると、ハルミスの力に阻まれて宝冠の力を引き出せないばかりか、どこにあるのかもわからないということでした。サティーナ様がピアスを手放したことで、場所の特定と力の解放がなされたということです」
 にっこり微笑まれ、長々と続く説明にサティーナの頭の中は混乱一歩手前である。
「……つまり、私はハルミスであって、ジュメルではないということですか?…いえ、そうではなくて、魔種の居場所は魔種にはわかると聞きましたけど」
「フロスト様の契約魔はかなりの力の持ち主です。今まで殺されなかったのは奇跡ですね」
 さらりと恐ろしいことを平気で言い放つこの男性に、サティーナは軽い目眩を覚えた。
 そんなサティーナをにこにこと愛想の良い笑顔を見せながら、服の内側へしまう銀色の凶器が目に入った。
 じぃっと見つめるサティーナの視線を感じたのか、男性は苦笑と共にその凶器をひらひらとかざした。
「まったく、悪戯心も大概にしないと命に関わりますね」
 手に持たれた銀色のそれはインクを詰めて使用するペンで、当然蓋付きである。そのままではさすがに人は殺せない。
「……間違いなく、ハーディスさんのお父様ですね…」
 ぐったりと納得するサティーナに、当の本人は意外そうに目を見開いて笑った。
「さて、ではご案内します」
 何事もなかったように、にこやかに微笑んで先を促す金髪紳士に、この切り替えのよさはやっぱり親子だと実感した。
「ああ、そうでした」
 歩き出したサティーナをちょっとだけ振り返って、男性は思い出したように話し出した。
「ラジェンヌ様はご無事だそうです。髪を切られたようですが、それ以外は全く大事無いということですよ」
 その報告にサティーナは足を止め、胸に手を当て、祈るように目を閉じた。
 足音の止まった後ろを振り返り、男性はその様子を優しく見守っていた。