八話 この旅の答え
 サティーナは十字路に走りこんですぐその変化に気がついた。聞こえていたハーディスが戦う剣戟の音が途絶えたのだ。
 突然周りが遮断された。そんなあまりに覚えのある経験に足を止め、唇を噛み締めた。
「…ハーディスさん? ノア?」
 いないとわかっていながら、とりあえず呼んでみるがやはり返事はない。
 気がつけばあれほど酷かった雨も止んでいる。思い返せば雨が止んだのは確か橋を超えた辺りだ。
「隔離結界…ね」
 ハーディスの言った言葉を忌々しげに繰り返し呟くと、サティーナは走り出した。
 目指すはラフィー書店。
 ハーディスの説明だとその扉は空間を移動する特殊なものだ。もしかしたら結界の中でも開くかもしれないと思ったのだ。
 道はわりと広く、真直ぐで、等間隔にある火球のランプのおかげで足元は何とか見える。
 その書店へと続く道の真ん中に何か転がっていた。
 ちょうどランプとランプの間で、光が一番届かない場所だ。
 思わず足を止め、周りを警戒しながらゆっくりとそれに近づいた。
「なに?」
 白くぼうっと見えていたそれはどうやら人のようだった。
 サティーナはとっさにその人物から離れた。この状況でありえるとしたらそれは罠でしかないからだ。
 しかし、サティーナの目指す書店はこの先にある。必然的に書店に向かうには倒れる人物を横切らねばならない。躊躇ったのは一瞬だった、サティーナにはやらねばならない事がある。
 できるだけ近づかないように店の壁にぺったり寄り添いながら横を通る。もし起き上がって襲ってきても大丈夫なように、倒れた人物を見ながら移動した。
 しかし、倒れるその人物は起き上がることはなく、難なく通り過ぎることができた。
 (罠じゃないのかしら?)
 すんなり通れたことで逆にサティーナは首をかしげた。
 道の奥にある火球のランプに照らし出された看板に、本屋の印が見えた。
 走り出せばすぐのところだ。
 サティーナはそれを確認するともう一度倒れている人に視線を移した。
 目が暗さになれるにつれ、どうやら女性だとわかった。白っぽい服は女性のドレス。髪は明るい色らしく、暗いながらも長さがわかる。女性にしては短い髪をしているようだ。
「……ダメよ。ダメ。そんなことないわ」
 まだはっきりとはしない自分の思考に、声に出して否定する。
 ここが敵の結界の中であること、さらに橋の前で聞いた噂話とあの記事が、サティーナに嫌な予感を覚えさせた。
 暗いせいで顔は見えていない。
 (ノアはお母様は無事だと言っていたわ。大丈夫よ。大丈夫…)
 しばらくその人物を見つめていたが、いつまでもこうしているわけにもいかず、少しだけうるさくなっている心臓を無視し、書店のある方角へ顔を向けた。
「母親を置いていくとはずいぶんじゃないか?」
「!!」
 手が届きそうなほどすぐ側にフロストの契約魔が立っていた。
 サティーナは思わず飛び退き店の壁にぶつかった。その衝撃と同時に道にかけられているランプに一斉に火が灯った。
 暗さに慣れていた目にその光はとても眩しく、思わず手をかざした。敵である契約魔から目を逸らしてはならないとそちらへ目を向けると、必然的に倒れている人物が視界に入った。
 見ようと思ったわけではない。いや、できることなら見たくなかった。
「……お…母様…」
 呆然と呟いた声はひどく掠れていた。
 そこに横たわる人物は紛れもなく、母だった。
 見開いた目は虚空を見つめ、薄っすら開いた唇は色が悪くカサカサに乾いており、髪は無残にも刈り取られ乱れ散っていた。
 旅に出るときに送り出してくれた母の姿が思い浮かぶ。それは今目の前に横たわる母とは似ても似つかない。
 サティーナは横たわる壮絶な母の姿に言葉もなく、壁を支えにずるずると座り込んだ。そのあってはならない姿から目を放せず、瞬きもしない瞳から自然と涙が溢れていく。
 何も考えられなかった。
 目の前にフロストの契約魔がいることなどすでに忘れていた。
「安心しろ。お前もすぐに後を追う」
 声もどこか遠くに聞こえる。
 フロストの契約魔はサティーナに向け力を放つ。
 容赦ない力を受けその場に土煙が立ち上がった。
 サティーナは消えても至宝はそう簡単に消失しないだろう。
 フロストの契約魔は目を閉じため息をつく。
「サティーナ! しっかりしろ!!」
 突然、響き渡った怒号に近い声に、フロストの契約魔ですら驚いた。
「なに?」
「サティーナ!!」
 収まってきた土煙の中、サティーナは無傷で座っている。
「…お前は」
 結界の外にいるはずのハーディスが、呆然と泣いているサティーナの肩をつかみ激しく揺さぶっていた。
「護符か」
 焼け落ちている金属片に気がつきフロストの契約魔は呟いた。
「父親譲りで予想外に面倒な奴だな、お前は」
「それは光栄だね。サティーナ、しっかりしろ……!」
 サティーナに呼びかけるその背にまた、契約魔の力が放たれる。
「ちっ!」
 ハーディスはサティーナを庇いながら、護符を一枚、向かってくる光に投げつけた。
 
 
「サティーナ! お前は"ハルミス"だろう。簡単に諦めるな!!」
「…ハーディス…さん?」
 何度目かのハーディスの声に、ようやく反応したサティーナがぼんやりと視線を上げると、そこに、にやりと笑う顔があった。
「正気に戻ったか?」
 笑ってはいるがハーディスは背中をこちらに向け片膝をついていた。
 状況がまったく飲み込めないサティーナは、そのとき初めて道に転がるモノの正体を知った。
 母だと思っていたそれは腕の大きさくらいの人形だった。
「くっそ。これじゃアキードに殺される」
「その前に私が殺してやる。残念だが逃げ場はない。護符もそろそろ尽きただろう」
 無表情に、フロストの契約魔は今までよりも大きな力をその手に集めだしたようだ。
「あの契約魔にも殺されるな」
 自嘲というか皮肉というか、なぜか余裕に見えるところがハーディスなのか。
 それを受けてサティーナはようやく己を取り戻すことができた。
「何言ってるの! とにかく逃げなきゃ!!」
 ハーディスに手を貸してその場から移動したが、フロストの契約魔の言う通り逃げ場はない。
 悠然と力を集める契約魔はその場から動かずに、サティーナたちを見ている。
「ラフィー書店に入れない?」
「どうだろうな…可能性としては低いが…ジュメルの月だからなっ…」
 支えていたハーディスが突然膝を折って地面に座り込んだ。
「ハーディスさん!」
 息をするのも苦しそうなハーディスが手で押さえている場所を見ると、血が滲んでいた。
「サティーナ。いいから逃げろ…」
 出血はかなりひどく膝をついた地面にどんどん大きな血溜まりが作られていく。
「そんなことできないわ!」
「可能性がある限り、逃げろ。なんのためにここまできたんだ?」
 ジュメル卿に至宝を届けるため。サティーナの最優先事項で、ハーディスの使命でもある。
「それでも! 誰かを見殺しにしてまでなさければならいことじゃないわ!」
 ずっと抱えていた思いだ。
 自分が犠牲になるならいい。それは自分が選択したことだからだ。でも、それに巻き込まれた人が犠牲になるのは違う。
 サティーナは強引にハーディスを立たせると、引きずるようにラフィー書店に向かった。
「可能性がある限り、諦めないで!」
「無駄なことを」
 後ろからかけられる冷たい声に振り向くと光の洪水が映る。
 ラフィー書店に向け、懸命に歩を進めていたが、ついにハーディスが力尽きた。
「きゃあ!!」
 男の体重を支えられずサティーナも一緒に地面に倒れる。見るとハーディスは意識を手放す一歩手前だ。
「ハーディスさん! しっかりして!!」
「にげろ」
 倒れこんだ二人に、フロストの契約魔が放った光と叩きつけるような風が襲う。
 結界から出ることはもちろん逃げ出すこともできない。
 まさに絶体絶命。
 確実に迫る死の恐怖で真っ白になった頭に、焼けた石のように赤い瞳が鮮明に浮かび上がった。
「迷うな。サティーナ」
 その声に弾かれたようにサティーナは行動していた。
「こんな物があるからいけないのよ!!」
 懐に手を入れ光に向かってそれを投げつけた。
 それは紛れもない、母から託されたあの小さな袋だった。