「うわ、降ってきたな」
 橋が見えるころぽつぽつと雨が降ってきたため早足で街道に出た。
 しかし橋を目の前に雨は一気に土砂降りにまで発展し、近くの店の軒下を借りて雨宿りをする。
「こんな時に…通り雨だといいけどな」
 空を見上げながら言うハーディスに、サティーナが遠慮がちに声をかけた。
「えっと、あの、離してもらえますか?」
「あ?」
 繋いでいる手のことである。少し落ちつかなげなサティーナにハーディスはにやりと笑い、その繋いだ手を口元にもっていく。
「!!」
 口づけられる直前、サティーナは咄嗟に手を引き抜いて警戒心を露わに臨戦態勢をとった。
 すると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。ハーディスである。
「サティーナは免疫なさそうだな。いくつだ?」
 その笑いにからかわれたのだと気がつき非難の目を向けた。
「…十七よ。そういうからかいかたって失礼だと思う」
「ははは。悪かった。ところで一つだけ聞いておきたいんだが、サティーナは至宝を使えないのか?」
 何事もなかったように笑いを収め、真面目に質問をする切り替えの早いハーディスに、サティーナは疲れたようなため息をついた。
「私もそのくらい切り替えしがよければいいのに」
 落ち込むサティーナの頭にハーディスが手を置く。
「ぽんぽん切り返す女より、ちょっと鈍そうなほうが可愛いぞ」
「それって素直に受け取れないですけど」
「オマエ、至宝のことをどこで聞いた?」
 二人の話のずれた会話を無視し、ノアが少し警戒した様子で尋ねた。
「一昨日、アキードから手紙が届いたらしい。そこに俺に連絡をつけるように言ったこと、ジュメル卿に届け物を持っていることが書いてあった。ま、そんなものなくても、ラジェンヌ様が生きていることは知らされてたし、その娘が持ってくるものなんて、この状況からして一つしかないだろう」
 アキードと違いちゃんと説明をしてくれるハーディスに感動しつつ、サティーナはアキードの配慮がここにもあったことに感謝した。
「私に至宝は使えないみたい。というより反応もしてないって言ってたから…」
 そういうと確認をとるようにノアに視線を向けた。
 ノアはその事実を肯定するように頷く。
 それを見たハーディスは少しだけ首をかしげ、ノアを見つめた。
「お前…もしかして、契約魔か?」
「ああ」
「話の状況からしてサティーナのじゃないよな?……って、ことはアキードのか」
 驚いたように言うハーディスにサティーナも驚いた。
「知らなかったの?」
「ああ。アキードが契約魔を持ったらしいって話は聞いたが、会った事はないし、まさかこんなところにいるとは思わなかった」
 そう説明しながらノアをみやり、「へ〜」と何か不思議な物を見るような目で見つめていた。
「オレのことはいいから、急いだほうがいい。渡るなら今のうちだぞ」
 例により不機嫌にそういうとマントのフードをかぶる。
 ノアの言葉にハーディスも頷いた。
「そうだな。雨の降っているうちに渡ったほうがいい」
 サティーナの姿を見て検問の兵士が見逃すわけがない。
 しかし、今は雨であるため頭からマントをかぶっていても自然な行為だし、見咎められることはないだろう。
 ハーディスは橋の向こう、ヴィーテル国へと視線を投げ、サティーナを振り返る。
「いいな?」
「ええ」
 真剣な表情に覚悟を聞かれ、サティーナも少し緊張しつつ頷いた。
 土砂降りの雨のせいか、街道にも橋にも人は少ない。
 考えてみればもう夕刻でちょうど食事の時間帯でもあった。店からはおいしそうな匂いがしてくるところもある。
 街道の明かりは火球のもの以外は土砂降りの雨で消えてしまったためか、通常より暗めだ。店の窓から洩れる光と、各十字路に置いてある道標を兼ねた灯籠が唯一の光源であるが、それでも十分明るかった。
 橋の上にも等間隔に火球の街灯が設置されていて、人の顔を認識するくらいには明るく保たれている。
 二人は遅過ぎず早過ぎず、橋の入り口にある検問所の前を通り抜けた。
 知らず息を殺していたサティーナは、見咎められることなく通り抜けらたことで、一度詰めていた息を吐き出した。
「そうだわ。話していたその扉はどこにあるの?」
 第一関門を突破すると周りに人がいないこともあり尋ねてみた。
「橋を渡って、二つ目の十字路を左に曲がったところにあるラフィー書店の表口だ。扉にある金の月に手を置いて開けると首都のウリィー書店の表口に出る」
 それきり二人の会話はなく、橋を渡り終える頃、ようやく土砂降りも少しだけゆるくなった。
「さて、何もなければいいが、間違いなくこの先は何かある。覚悟はいいか?」
 真っ直ぐ前を見据えてもう一度聞くハーディスにサティーナも頷く。
 決戦の火蓋があるなら、まさにこの橋の終わりがそうだった。
 石造りの巨大とさえ言える橋の終わりが近づくにつれ緊張が増す。サティーナは激しく動悸する胸を押さえるようにマントの胸元をぎゅっと握りしめた。
 そして橋の終わりを踏み越えた瞬間、近くで小さく何かが弾けるような音がした。
「今の?」
 その音は一度聞いたことのある音だった。
 音源である後ろを振り返るとノアが小さく舌打ちした。
「ここまでだ」
 その姿が見る間にぼやけ消失した。
「急げ!」
 それを見たハーディスがサティーナの手を引いて全速力で走り出したが、一つ目の十字路で立ち止まることになった。
「!!…何?」
 急に止まったハーディスに困惑気味に声をかけると、ハーディスはサティーナを庇うように立った。周りの店には客がいて話し声が聞こえており、特に変わった様子はない。
「…隔離結界か」
「え?!」
 ハーディスの呟きにサティーナは驚いた。一度入ったことのある結界の中とはずいぶん様子が違ったからだ。
「さすがというべきか。元聖騎士の擬装符は優秀だな。まさかここまで入り込んでいるとは思わなかった」
 突然かかった声に前を見ると、今まで誰もいなかったはずの街道に男が一人立っていた。
「ハルミスの娘。私の主にピアスを渡せ。でなければお前の死が条件になる」
 濃い紫色の髪の青年は真っ直ぐにサティーナを見据えて淡々と告げる。その言葉で彼がフロストの契約魔であることは明白だ。
「それができれば苦労はないぞ。フロスト様を説得する方法もあるだろう。契約魔のあんたの言葉なら耳に入るんじゃないのか?」
 臆することなく契約魔の青年に答えたのはハーディスだった。
「言っても無駄だ。手に入れるまでは止まるまい」
「なるほど。…あんたも止まれないってわけか」
 それが最後の制止の声だったが、全てはもうすでに始まってしまっている。ハーディスの言葉が受け入れられる場所はどこにもない。
「ピアスを渡す気はないのだな?」
「あったらとっくに渡している」
 交渉は決裂。
 それと同時に青年の手に急速に光が集まる。間違いなく攻撃だと空気が伝えた。
 ハーディスは懐から短刀を取り出し青年に投げつけた。
 真直ぐ飛んだ短刀に青年は一瞬眉を寄せ、未集束の光を放った。その光が短刀にぶつかると弾け飛んだが、ハーディスはすでにもう一刀投げつけていた。
 それを青年は素手で叩き落したが、その手から白い煙が立ち上る。
「…腐っても聖騎士か」
 煙の立つその手を見下ろし、呟くと何かを振り払うように腕を振った。
「悪いが俺は腐ってない」
 どこか楽しそうに受け答えるハーディスはサティーナを庇いながら動く。
 間髪いれずに次々と投げつけられる短刀に、さすがの契約魔もよけるしかないようだ。ハーディスはその攻撃で街道を塞ぐように立っていた契約魔を、道半分へと移動させることに成功していたが、一つだけどうにもならない問題があることにサティーナは気がついた。
「ハーディスさん」
 硬い声で名を呼ぶとハーディスは頷いた。
「わかってる」
 隔離結界は魔種にしか作れない結界だ。聖騎士のハーディスにもそれはわかっているだろう。
 このまま前に進んでもその結界に阻まれ前へは進めないのだ。
「聖騎士程度の力では私の結界は壊せまい」
 どこか余裕のある青年は、ハーディスにはこの結界を壊せるほどの力がないと読んでいるようだ。
「まあな。俺は呪術方面は得意じゃない」
 間違いなく不利だと言ってもおかしくはない状況で、なぜかハーディスは笑っていた。
「サティーナは呼べるんだろう?」
 ちらりと振り返聞かれた言葉に、一瞬何のことなのかわからず混乱しかけると、ハーディスは橋を指差した。
「まだいるはずだ」
「でも…」
 先ほど消えたノアのことを言っているのだとわかったが、サティーナは躊躇った。
「無駄だ。名を知っていようが契約していなければただの言葉に過ぎん。少し猶予をやろう。降伏するなら殺しはしない」
 ちょうど十字路の真ん中に立っていた二人を、誰もいなかった四方の道から次々と兵士が現れた。その数およそ二十。
 敵は速やかにサティーナたちの周りを囲むように移動する。ハーディスはその動きを見ながら腰にある自警が持つ剣を鞘から抜き払った。
「結界に契約魔だけでも厄介なのに、兵まで出てきたか…さて、どうする?」
 剣を構えながらぼそりと呟く。
 輪を切る形で一点突破を狙えば十字路までなら逃げ切れるかもしれないが、問題はその先にある。結界と最大の敵である契約魔だ。
「さて、時間だ。どうするハルミスの娘」
 攻撃態勢が整うとフロストの契約魔はサティーナに答えを聞く。
「サティーナ」
 ハーディスが声音だけで答えを制限する
「わかってるわ。私はハルミスの子だもの」
「いい答えだ」
 ハーディスはにやりと笑うと懐に手を伸ばした。
 それを見るフロストの契約魔は感情の欠片もない声を発する。
「残念だ」
 それを合図に兵士が一斉に二人に踊りかかった。
「サティーナ、呼べ!」
 ハーディスは取り出した短刀を真上に向けて投げつけた。
 ある点に達すると短刀は光となり蒸発した。
 サティーナは何が起きたのかわからず、それでもハーディスの要請に答え叫んだ。
「ノア!」
 サティーナが叫んだと同時に二人の目の前で空気が弾けた。
「召喚成功」
 ハーディスの緊張感に欠けた楽しそうな声に、サティーナは一瞬呆けた。
 二人の前には二度目の呼びかけに応じてくれた黒い狼が鎮座していた。