トマス・ハリスに案内された先のパン屋はかなり繁盛していて、夕食時も近いこともありの店の前に行列ができていた。
「こっちだ」
 その繁盛している店の裏手に回り勝手口から入ると中に声をかけた。
「ただいま。メラニー、お客さんだ。何か食べるものあるか?」
 その呼びかけに奥から小柄の五十前後の女性が現れた。
「はいはい。お帰りなさい。あらあら、可愛らしいお客さんだこと。今日はシチューよ、ちょっと待ってね。お二人さん、手はそこで洗えるわ」
 テキパキと食事を用意する女性の横でトマスもテーブルを用意する。その上にシチューにパン、香草のサラダが置かれていく。
 サティーナはとりあえず荷物を床に置き、手を洗うと邪魔にならないように壁にぺったりくっついて立っていた。その隣にノアも立つ。
「はい。ごめんなさいね。もういいわ。それじゃウェインさん私は店にいますからね」
「ああ。ありがとう」
 慌ただしく女性はまた奥へと消えて行った。どうやらその奥は店舗になっているようだ。香ばしいよい匂いがこの部屋にも漂っている。
「さて、食べるか。どうした?」
 席につくトマスをサティーナが立ったままじぃっと見つめる。
「ウェインさん?」
 去りぎわにあの女性はトマスを確かにそう呼んだ。
「ああ。説明は食べた後にな」
 にっと笑うトマスの前に座り、久しぶりに暖かい家庭料理をご馳走になった。
「ノアはどうする?」
 魔種が人間の食べ物を食べる必要がないのは知っているが、食べられないわけではないということも知った。
「オレはいい」
「美味いぞ?」
 そういうと香ばしいパンが目の前に置かれ、じっと見つめてから一口食べ、味わうようにゆっくり噛み締めていた。
 ノアは意外に何でも口にする。どうやらそれは好奇心からくる行為のようで、そこに少しだけ幼さが見え隠れして見えた。
 
「さてと、何から話すかな」
 食事が終わるとテーブルの上を片付け、お茶を出しながらトマス・ハリスと名乗っていた金髪の男性はサティーナを見た。
「改めて自己紹介からするか。俺の本名はハーディス・ウェイン。トマス・ハリスは自警に入り込むための偽名だ。つまりサティーナは俺の妹で恋人だって名乗ったわけだな」
「やっぱり、そうなのね」
 さっきの女性の発言で考えられることはそれしかない。
「そう落ち込むな。そんなこと言わせる人間は一人しかいない」
 暗号だと言っていたアキードのことだ。
 ため息をつくサティーナを見てトマスことハーディスは面白そうに笑った。
「まぁ、アキードのことは置いといて。俺の父はジュメル卿の秘書をしていてな、一昨日サティーナのことを聞かされたんだ。令状の人物がここにきたら即座に保護するようにって」
「令状?」
 お茶を飲みながら話すハーディスの言葉にサティーナは少し緊張した。
「昨日、検問の兵たちに令状が配られたんだ」
 内容はこうだ――黒髪に赤目の十七歳くらいの女を見かけたらすぐに身柄を拘束すること。また、サティーナあるいはサナと名乗った女がいればそれも拘束すること――。
「兵たちはマゼクオーシの自警にも協力を要請して、すでに三人捕まってる。探している人物でないとわかって釈放されてるけどな」
「そう、よかった……あ、でも私さっき…」
 自分と間違われた女性たちが無事でとりあえずほっと胸を撫で下ろしたが、根本的な問題は変わっていない。
 令状の中にある人物と符合点の多いサティーナは、先ほど自警のしかも本部に現れたのだ、何か動きがあってもおかしくない。
 少し焦った様子のサティーナに、ハーディスは笑顔を向けた。
「ああ。俺の恋人だってことで気が緩んだんだろうな。ロイスだって名乗ったし、別人である前例が三件もあって、俺の恋人ならって見逃したんだろう」
 実際あの場の雰囲気は和やかなものだった。
「それはまぁ、いいんだが…」
 ハーディスは席を立って紙切れを一枚サティーナに渡した。
「今朝こんなものが出回った。一応自警で回収はしたが全部は無理だろうな」
「………」
 紙には文字が並んでいる。それはヴィーテル国貴族の醜聞を書き綴ったものだ。それを読み進めるサティーナの顔がしだいに固くなる。
 
 【…ジュメル卿邸の地下牢から失踪中とされている愛娘、ラジェンヌの遺体が発見された。ジュメル卿には兼ねてより娘殺しの容疑がかけられており、このほど屋敷の捜索が入ったところ、地下にある牢にラジェンヌと思われる女性の遺体が発見された。なお、ジュメル卿は関与を否定しているもよう…】
 
 紙面に目を落としたまま動かなくなったサティーナの顔は血の気が失せていた。
 あの男たちが話していたのはこのことだろう。
「ジュメル卿の裁判は明日だそうだ」
「え!?」
 思わず立ち上がったサティーナにハーディスが手で落ち着くように促す。
「裁判といっても事情を聞くだけのものだと思う。そこには遺体が見つかったとあるが、実際は娘殺しの決定的な証拠は何もない。だが今のままだと、次期卿に影響があることは間違いない。もしかしたら最悪、フロスト様に地位が渡らないとも限らない。この状況なら誰も咎めないからな」
 真剣に話すハーディスを見てこれまでずっと疑問だったことを口にした。
「母の兄はそんなに悪い人なの?」
 どうして皆は彼にジュメル卿の地位を、サティーナが持っている至宝を渡したくないのか、その辺の事情を誰も話してくれなかった。
 ジュメル卿の秘書の息子というハーディスなら、おそらくフロストの人となりを知っているのだろうし、アキードよりも事情を知っていそうだ。
「悪い人間ではない。むしろ慕われている人物だ。ただ…」
 サティーナの質問に、ハーディスは少しの間をあけ、苦いため息を落とす。
「ジュメルの至宝を使って、最悪の禁忌を犯そうとしている。それだけは阻止しなければジュメルの血筋は完全に閉ざされる。それほどの禁忌だ」
 血筋を完全に閉ざすとは一族全てを断絶するということだ。
「何をするつもりなの?」
 サティーナにはあの小さなピアスで何ができるのだろうという思いが強い。それほど大きな力を秘めているものだという実感はなく、血筋を断絶というほどの禁忌とは何か想像もつかない。
 素朴な疑問で深刻ではなかったのだが、ハーディスは渋面で呟いた。
「死者を呼び戻すつもりだ」
「できるわけないだろう」
 ハーディスの言葉を即座に否定したのはノアだった。
 そのノアに視線を送り、首を横に振った。
「できると思っているやつに、正論を説いても無駄だ。実際、ジュメル卿が二十六年間、何度もできないと諭したが…」
 結局受け入れられずに現在に至る。
 二十六年。サティーナの兄と同じくらいの年月を経ているのに、いまだに諦められずにいるほどの思いとはどんなものか、サティーナには想像もつかなかった。
「執念だな」
 ノアが呆れたように呟くとハーディスも疲れたように椅子に背を預けた。
「二十六年前、ラジェンヌ様が至宝を持っていなくなって、これで思いに区切りを打てるだろうとジュメル卿も、父も思ったらしいが、現実はそうはならなかった」
 それほど心を囚われる人がいるのは幸か不幸か、それは本人にしかわからないだろう。
 暗い雰囲気の漂う部屋でしんみりしていると、奥の店舗から声がかかった。
「ウェインさん。お客様は泊まるんですか?」
 焼き菓子を持って現れた女性はにこやかにその雰囲気を打破してくれた。
「いいや、すぐに出るよ。それと、ちょっと父のところへ行くからしばらく留守にする」
「はい。ハーディス様によろしくお伝えください。あ、お嬢さん良かったら食べて」
「はい。ありがとうございます」
 一つ摘まんで食べると、女性はにっこり微笑んでまた奥へ戻って行った。
 その後姿をハーディスも見送ると、元の表情を取り戻して笑った。
「と、いうわけだ。あまり時間がない。卿の娘殺しを否定できるのはサティーナの存在しかない。公にはならないだろうし、これでフロスト様も気がついてくれるといいが」
「ええ。すぐに行きましょう…でも間に合うの?」
 ポンシェルノ育ちのサティーナにヴィーテル国の土地勘はないが、マゼクオーシからヴィーテルの首都までは一日でつける距離ではないことくらいは知っていた。
 ここマゼクオーシから首都までは早くても七日くらいの道のりだ。急いでも到底間に合う距離ではない。
 しかしハーディスには何か秘策があるらしい。にやりと笑った。
「そこは大丈夫だ。"ジュメルの月"がある。ヴィーテル国内の特定の扉にちょっとした仕掛けがあって、その扉は首都に直接繋がってる。で、橋の向こうはヴィーテル国領内だ」
 つまり橋を渡ってその扉がある場所まで行けば、当面の問題は解決できるということだ。しかし…。
「そこまでに罠がないとは言い切れない。いや、おそらくもうすでに張ってあると見て間違いない」
「ええ。そうね。でも行かなくちゃ」
 話が決まるとハーディスは奥にある店舗に声をかけ身支度をし、サティーナとともにパン屋を出た。
「降ってきそうだな。少し急ぐか」
 雨の気配が強くなった星のない空を仰ぐと、少し固い顔のサティーナの手をとってヴィーテルへ続く橋へ向かった。