フレンダ港からロージー川を遡るように歩けば、ヴィーテル国境検問所のある自由都市マゼクオーシへとたどりつく。
 マゼクオーシは都市の真ん中をリーコット街道が貫いており、その街道をロージー川が分断している。橋は都市の真ん中に位置し、その橋を中心に都市ができあがっていった。
 同じ自由都市といわれるイノとは違い、街には門などはなくどこからでも入ることができた。一歩入ればそこは露店商が立ち並び、まるで市場のような賑わいを見せる。
 しかし橋に近づくにつれ店の格式が上がっていき、店先にはきちんと看板がかかるいわゆる老舗と呼ばれる店だ。
 そんな賑やかな空気に雨の気配が混ざり始めた夕刻、サティーナは苦労することなく街へと入ったのだが…。
「困ったわ」
 街道から入ることを避けたため、現在位置がどこなのかまったくわからなくなってしまった。マゼクオーシは今の姿になるまで大きさや形を変えており、街の構造も複雑になっていた。
「街道へ出たほうがいい」
 歩きながら途方に暮れたサティーナの隣にいるノアがそう告げる。
 昼間あれだけ目立ったため、一緒に行動するのには適さないと思っていたのだが、夜が近づくにつれ闇に溶けるように気配が密やかなものになっていた。
「その街道へ出る道をまず探さないと。ノアにもわからないわよね」
 道は曲がりくねり、行き止まりが多々あり、まるで巨大な迷路に迷い込んだ気分だ。
「川のある方角ならわかる。とりあえず川へ出れば橋が見えるだろう」
 それが一番いい方法だと思い、ノアに案内をされるまま川へと出ると橋のある方角はすぐにわかった。
「あれが橋ね。大きいのね…」
 遠くから見てもその橋は感嘆のため息が出るほど大きく、橋の途中にはいくつも街灯が立っていた。
 橋は長く、石造りでかなり幅のあるものだ。そもそもロージー川が半端じゃなく広い。対岸に時々見える人の姿は小指の先程にしか見えない。
 そんな対岸を眺めつつ、橋へと近づいていくとヴィーテルの兵士を見かけることが多くなっていく。
 問題の検問所は橋の前にあった。
 しかし検問といっても一つ一つの荷をあらためたりするのではなく通る人を監視しているだけで、基本的に出入りは自由なようだ。
 決して緩い警備ではないがこれくらいなら何とかなりそうだった。
「橋に続いている道だからこれが街道ね。とりあえず自警本部がどこにあるのか聞かないと」
 アキードの言っていた人物に会うために自警を見つけようと思っていたが、ここマゼクオーシの自警の見分け方が皆目見当もつかない。
「イノの自警は目印があったのに。マゼクオーシの自警は目印はないのかしら? それともわざと?」
 イノのように自警であることを認識させ、それで犯罪の抑止に繋げているのではなく、ここマゼクオーシは一般の民と紛れて目を光らせているようだ。
 どこに敵がいるかわからないため、うかつに街行く人に声をかけるわけにもいかず、一度街道の外側に戻ることにした。
 格式のある店が建ち並ぶのは都市の中心だけで、外へ向かえば幌馬車や、地べたに直接布を広げていたりと様々だ。たくさんの商人が声を掛けてくる中、気のよさそうな中年男性の店を覗き込む。露店に並んでいるのは装飾品だった。
「いらっしゃい。お嬢さんにはこれなんかいかが?」
 薦められたのはサティーナの瞳と同じ赤い色の石がついた髪挿しだった。
「きれいな色ね。おじさん、自警本部ってどこにあるのかしら?」
「ん? 本部かい? 本部ならこの街道沿いにあるフランソワ宝石店を右に曲がった突き当たりだよ。本部に用なんて、いい人でもいるのかい?」
「そうなの。ありがとう」
 店主のからかいを含んだ問いにサティーナがにっこり微笑んで答えると、店主は笑いながらそいつを連れてまた来いといってきた。
「フランソワ…宝石店があったかしら?」
 今きた道沿いの店を思い返しながら、目印の店を探すため、また橋のある方角へと足を向けた。
 幌馬車の野外飲食店の前を通ると、肉の焼ける香ばしい匂いに、歩きながらも思わず視線を向け、ぴたりと足を止める。
 隣を歩いていたノアが、サティーナの行動に不思議そうに振り返ると、サティーナは青い顔で立ちすくんでいた。
「それ今朝の話だろう? 確かジュメル卿だったよな」
 どうしたと声をかけようとして、ノアもその話題に聞き耳を立てる。
「ああ。その発見された遺体は全身をずたずたにされていて、そりゃあひどい有様だったって話だぜ」
「ひえ〜。いやだね。その殺された女ってのはどこかの貴族の娘なのか?」
「お前、あの怪文書読んでないのか? ずいぶん前にいなくなったそのお偉いさんの娘じゃないかって話だ。なんでも権力がからんでるらしいぜ」
 旅人と思われる二人はいやだいやだと震え上がりながらその話を切り上げた。
 二人の話を呆然と聞いていたサティーナは、話題を変えた旅人に、今の話が本当なのか問いただそうと足を踏みだした。
 ふらふらと歩き出したサティーナを後ろから引き止める腕が伸びる。
 その腕はとても強い力で店と店の間の狭い道へと引き込み、サティーナを抱きしめたまま壁に背を預けた。
 サティーナは声を出すことも抵抗することもなかった。この状況で人目のつかない場所へ引き込む腕が、誰のものなのかなど考えるまでもなかった。
「…ノア、お願い。本当のこと言って」
「オマエの母親は無事だ」
 背中から回された腕を強く握り締めて聞くと、耳元で答える声は紛れもなくノアの声だった。
「…見てもいないのに、どうしてわかるのよっ…」
 予想していた答えに、サティーナは叫びたいのを必死で押さえて抗議する。喉の奥から絞り出したその声はすでに泣きだしそうだった。
「アキードも大丈夫だって言ったわ。お父様がそれを許さないことくらいわかってる。でも! それでも、髪を切られるような事態になっているのよ!」
 一度は整理のついた心がまた乱れ始めた。
 アキードの言葉と父の立場、母の立場を考えれば、母は無事なのだと思える。しかし、確たる証拠もないうえに髪は確実に切られているのだ。
 目の前の壁を睨むその瞳から耐えきれずぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「私の選択は、本当に…正しいの?」
 嗚咽混じりに聞こえる声は先ほどと違い力がなく、ノアの腕にかかる負担が強くなる。支えていなければ崩れ落ちそうなサティーナの心を占めているものは一つだ。
 あちらには契約魔もいる。
 いかにハルミスといえど、魔種の張った結界に入ることはできないだろう。その中で母が殺されてもなんら不思議ではないし、そうなっている可能性が高い。あの男たちの話が実際のことだとしてもおかしくないのだ。
 声を殺して泣くサティーナに、ノアはどう言葉をかければいいのか悩んでいた。
 顔は見えなくてもサティーナが泣いていることは明らかだったが、このまま放っておくわけにもいかない。
 しかし、今この状況では何を言っても受け入れはしないだろう。真実も偽りだと思われること間違いなしだ。
 しばらく沈黙した末にノアは重い口を開いた。
「オレの名は"ノアフェルミス"だ。この名にかけて、オレは本当のことしか言わない」
 その言葉の重さに、サティーナは泣くのを忘れノアを振り返る。
「…ノア?」
「人間は光を放っている。力が強ければ強いほどその光も強い。オマエがアキードと会ってから、ポンシェルノから出た光で消失したものはないし、強い光が一つ見えている。オマエの母親は無事だ。もちろん直接本人を見たわけではないから、オマエの言う通り本当に無事かはわからないが」
 サティーナは呆然とほぼ同じ高さにあるノアの瞳を見つめる。見つめ返してくるノアの瞳は全てを吸い込んでしまうような闇色だ。
「少しは信用したか?」
 真剣に尋ねてくる黒い瞳に、驚きつつもサティーナはこくりと頷いた。
「いいか、絶対に口外するな。今まで以上にオレを呼ぶときは気をつけろ」
 命令口調であるが、優しい声にサティーナの瞳からまた涙がこぼれる。
「お、おい」
 泣き出すサティーナにノアは慌てたが、サティーナは笑っていた。
「うん。もう大丈夫。……ありがとう」
 涙を拭きながらどこか明るさを取り戻したサティーナに、ノアはほっとした様子で街道へ目を向けた。
「オマエには今、するべきことがあるだろう」
「ええ。自警本部に行ってトマス・ハリスに会うわ」
 そう断言し、ノアの視線の先にある街道へ、自警本部へ向け再び歩みだした。
 ノアが口にした言葉には、サティーナが再び歩き出すのに十分なほどの力を与えていた。
 彼らが決して口外を許さないもの、いわゆる禁句というものはこの世に一つしかない。
 彼らにとってそれは存在そのものであり、だからこそ見返りを求め限られた者にしか教えない。それゆえに"契約"と呼ばれる。
 だからこそ、ノアから無償で与えたられた"それ"は最大の信頼と呼ぶに相応しく、サティーナはそれに応えるために、前へと進んだ。