船は風を受けて真っ暗な夜の湖を快調に滑る。
いや、その船は快調すぎるくらいに船足が速かった。
「この船はフレンダまで一日半でつくよ」
と、走り出してから船の主ににたりと危険な笑顔で言われ、その意味をまったく理解していなかったサティーナは、この船に乗ったことを少なからず後悔した。
「速いのはいいわ。とっても助かる。でも……ううっ…」
その船はとてつもなく揺れた。今まで水の上を移動するという経験がなかったサティーナにとって揺れというものがこれほど気持ち悪いとは想像もできなかった。左右の揺れはまだましだ、問題なのは上下に動くということだ。
最初はふわふわとしたものだったのが、走り出して間もなく急に落下と上昇を繰り返す激しい上下移動に胃の内容物が飛び出しそうだった。
その時になって手渡された桶の意味を知った。
「二日酔いってこんな感じかしら…」
様子を見にきた船の女主のベルーナに、うめきながら言うと豪快に笑った。
「そんなことが言えるならまだ大丈夫だね! 初めて乗った客は普通死んだように寝込むものさ」
それを最初に言って欲しかったと後悔しても遅すぎた。
しかし、そのおかげでフレンダ港には宣言通りおよそ一日半で着いた。ついた時間はまだ夜明け前で泊まる場所も閉まっていた。そのため朝まで船の中にいてもいいと許しをもらった。
「大丈夫か?」
船での移動中はあまりの揺れに寝ることもままならなかったサティーナに、これもまた元気なく声をかけたのは人の姿をとっている契約魔だ。
その少年の姿をしているノアもひどい顔をしている。人の乗り物など初めて乗ったに違いない魔種は疲れきった顔をしていた。それでもまだサティーナよりは平気な様子だ。
「今日はもうだめ。一歩も動けない」
そういうと荷物を抱えて横になった。これから大変になることがわかっているだけに今は気力体力を養うことにした。
サティーナがフレンダ港に着いた頃。
男は自分の契約魔に向かって激しく罵倒を浴びせていた。
「一度は接触した娘の行方が知れないとはどういうことだ!!」
男の言葉の針を、例により紫色の髪の契約魔は眉一つ動かすことなく受け流していた。
あの日、エントの宿で少なからず勝算を持っていた男は、今の状況に余裕などどこにもない。相手は十七の娘だ。あの脅しで当然けりがつくと思っていたのに完全に的が外れたのだ。
それは自身の過失でもあるが、それ以上に契約魔の失態に腹を立てていた。
「お前はそれほど無能だったのか? それともわざとなのか? これほどの失態を犯すとは!」
奥歯を噛み締め搾り出すように告げ、あまりの怒りに舌打ちまでしてしましそうだ。
貴族という建前などすでに崩壊寸前だったが、生まれ持った性質はそれを何とか理性で押しとどめていた。
エント城砦に探している娘がいると報告があったのは八日ほど前だ。
是が非でも娘の持つ至宝が欲しい彼は契約魔に命じ、空間を歪めエントの宿の一室に部屋を繋いだ。
そしてかねてより手にしてあった娘の母、つまり彼の妹の髪と髪飾りを一緒に送りつけた。その時の反応を聞く限りでは成功したと思えた。
大人の階段を上り始めているといえ、まだまだ小娘の域を出ない子供だ。母の髪だと認識できれば平静ではいられないだろう。
しかし、その予想を大きく裏切り、娘は彼の部屋に現れることはなく、それどころかエントから居なくなったのである。いや、完全に消息が途絶えたという。
逃げる可能性も予想していた。だからこそ契約魔の失態が信じられない。
「なぜ、行方がわからない」
何も弁解しない契約魔を見据え、どかりと椅子に腰を下ろすともう一度問うた。
「言っただろう。光がなくては探せない」
それは何度も聞いていた台詞で、フロストにはただの言い訳にしか聞こえない。
「あの娘が信じられないくらい光が弱いことは聞いた。あの娘には同行者がいたといっていたではないか。娘がだめでもその同行者を追えばいいだろう」
「無理だ」
きっぱりと言い切る契約魔の言葉に、フロストは頭を掻き毟りたいほどの衝動に駆られた。
「お前は私を苛立たせて楽しんでいるのか?」
腹の底から絞り出したような低い声で問うと、契約魔はため息をはきだした。
「同行者は聖騎士だ」
その言葉に眉を寄せる。
「聖騎士だから無理だとういうのか? お前が?」
フロストは自分も契約魔の力量を知っている。
聖騎士は神官と違い結界や呪術をあまり得意としない。聖騎士がこの契約魔を欺くほどの力を持ち合わせているとは思えない。聖騎士程度が張る結界など高が知れているからだ。
しかし、次の瞬間フロストは凍りついた。
「その聖騎士は、トリウェル・アキードだ」
「トリウェル!…まさか…そんな……」
フロスト自身、ジュメルを名乗る者だ。もちろん父ジュメル卿の配下の名前くらいは一通り知っている。
しかもトリウェルといえば彼の配下の中でも異彩を放っていた。
クラム・パルテ神殿最高位の聖騎士にして最年少で就任し、その在位僅か二年という肩書きはいやでも目につく。
一点を見つめ考え始めた男を黙って見つめる青年はひっそりため息をついた。
「トリウェルは確か今、王女を探しているはずだ」
「ああ、だからこそ偽装符を身につけている。一度姿を現したがエントに入る前のことだ」
「契約魔は?」
「あちこち歩き回っていたが、昨日から気配が消えた」
「トリウェルの契約魔は強いのか?」
「強いが生まれたてだ。これほどきれいに気配を消すことはできないだろう。おそらくトリウェルが隠したのだろうな」
そこまで聞くとフロストは深く考え込んだ。
その冷静になったフロストの顔を見る契約魔は目を細めた。
彼は決して愚かな人間ではない。少なくともあの時、契約を結んだ時の彼は。
「トリウェルが契約魔を隠したのであればおそらく娘につけさせたのだろう。最高位についていたほどの男だ。娘の特性にも気づいているはずだ」
問題は今どこにいるのかだ。
「…いるかもしれない場所を探すよりも罠を張ったほうが確実だな。トルム経由できているのだ、マゼクオーシに必ず現れる。そこで待て」
怒鳴り散らしていたのが嘘のように、冷静な判断を下し命令を出す。
「妄執とは恐ろしいな」
契約魔は気づかれないように嘲笑をもらし、消え去った。
ゴワ〜ンゴワ〜ンっと二回、鐘の音で目が覚めた。
「んん〜。お腹すいたぁ」
サティーナの目覚めの第一声はこうだった。起こしにきてくれた女主のベルーナがそんなサティーナに笑いながら声をかける。
「腹が減ってるなら大丈夫そうだね」
「はい。ありがとうございました。おかげでなんとか歩けそうです」
ずいぶんよくなったがまだ本調子ではない。おまけに前の日は揺れる船の中での食事が喉を通らなかったのでほとんど何も食べていない状態だ。
「昨日は何も食べなかっただろう。そういう時はフレンダ名物のフーリユを頼むといい。消化もいいし、栄養もあるから食べ終わったら調子も戻るさ」
朝から元気な主は女性ならではの気配りを見せてサティーナを送り出してくれた。そんな主にお礼を言い、船を降りると夜明けの港にはすでに働いている人がたくさんいた。
「あの、えっと。私はご飯を食べるけど、あなたはどうする?」
アキードの代わりの道連れは魔種という人外の生き物であるため一応聞いてみる。
「オレはその辺にいる。適当に食ってこい」
「そう。じゃあそうするわね」
まだ調子の戻っていない顔で歩いていくノアを見送ると、サティーナはお腹を満たすことにした。たくさんの人の間をすり抜けてとりあえず腹ごしらえのできそうな店を探した。
フレンダ港は決して大きくはないが活気だけは国にも勝るとも劣らない。船に乗っている人のために食堂は朝早くからやっていた。
一つの店に入り船の主が薦めてくれたフーリユを頼むと注文を取りにきた男性にこう言われた。
「お嬢さん船は初めてだろう」
どうやらそういう人間の食べ物のようだ。しばらくすると少し深めの皿に薄い黄色のスープのような料理が運ばれてきた。スプーンですくってみるとつぶつぶの浮かぶスープで、食べると濃厚なチーズのような味がした。
「その粒は麦でね、よ〜く煮込んであるから半分溶けてるんだよ。二日酔いの朝にもこれを食うとだいぶ胃が落ち着く優れもんだ」
男性が笑いながら料理の説明をしてくれた。
「やっぱり船酔いと二日酔いは似てるのね」
納得しながらその料理をきれいに平らげた。だいぶ落ち着いた胃をさすりながら料金を払って店を出るとノアを探した。
わりと目立つ少年の姿を探して、周りを見回しながら歩いていると、店の裏道でノアが柄の悪い男にからまれているのが見えた。
「! すみません!! 私の連れなんです。何か失礼なことでもしましたか?」
ノアを背に、男との間に割り込んでそう尋ねると男は鼻を鳴らして去っていった。
去っていく男を見てサティーナはほっと胸を撫で下ろす。
ノアが無事でよかったというより男の身の安全に安堵したのだ。いくら少年に見えても魔種である。ただの人間に敵う相手ではない。
「あの…何がどうしたの?」
男があまりにあっさりと引き下がった様子になにか不審なものを感じて聞いたのだが、返ってきた答えに思わず頭を抱えてしまった。
「いくらでついてくるかと聞かれただけだ」
「…ああ。なるほどね、よくわかったわ」
辺りはすでに明るく、その中で見るノアの容姿というものに十分納得いく返事でもあった。
彼はその存在だけで人を惹きつける要素を持っている。その最たるものは一見黒い色の髪である。光のあたる部分が赤く輝き、それはまるで上質の天鵞絨(ビロード)を思わせ人目を引くには十分だった。
日が高くなるにつれそれはさらに美しさを増すようだった。
「あの、私の用はもう済んだから行きましょう」
そう言うと獣魔はすたすたと街道へ向かう。その後をため息をつきながら追いかけた。もしかしたらアキードといるよりも大変かもしれないとちらりと思う。
「アキードはちゃんと会えたのかしら?」
以前の同行者がいるあたりの空をふと見ると雨雲がかかっていた。
フレンダを出るまでサティーナはノアの後ろについて歩いていたのだが、その間も人々の視線はノアに注がれた。
「あの…」
あまり目立ちたくないサティーナがなんとかならないかと話しかけようとすると、前を歩いていたノアが立ち止まりくるりと振り返った。
「ノア、だ」
「―…は?? の・のあ…??」
目をぱちくりさせるサティーナをじぃっと見つめてからふいっと顔をそらした。その態度に首を傾げるサティーナを置いてノアはさっさと歩き出してしまう。
その後を追いながら考えることしばし…。
「あ…名前、呼んでもいいの?」
自分の不本意な力が魔種に与える影響を考えると、どうしても呼ぶことに抵抗が生まれていたサティーナは、驚きそう聞くと面倒そうに質問が返ってきた。
「オマエは他人に名前を教えるのはどうしてだ?」
「もちろんそう呼んでほしいからよ」
「だろう? それに、あのあの言われる方が気になる」
契約魔ノアの答えになにか微笑ましいものを感じた。
「ノア、ね。ありがとう。できるだけ気をつけて呼ぶわ」
「…ありがとうは変だぞ」
一貫して面倒くさそうなノアはサティーナの最高の笑顔を見てため息をついた。
「だいたいオマエは少し気を使いすぎだ。意思をもって呼ばない限りはその封印は大丈夫だと思うぞ。もう少しヤツらを信用してやれ」
ヤツらとはおそらく封印を施した二人のことだろう。
「うん。そうね」
微笑みながらサティーナはそっと、手首ごと御守りを握り締めた。