野宿を経て歩くこと一日。
 その日の太陽が最後の光を世界に残して消えるころ、トルムの街灯りが見える距離まで近づいた。
「あれがトルム国?」
「ああ」
 初めて見る商業国トルムを前にため息をついた。
 周りは日が沈んだということもあって薄暗いのに、トルム首都のあるその一部だけ太陽がまだあるかのように明るく、雲まで輝いて見えるくらいだ。
 街並みが見えるにつれその驚きはさらに増した。
 街の明かり全てが、高価なことで知られる火球のランプなのだ。街路灯、店先の看板、人々のもつもの、全てだ。そのせいで昼間のようにとても明るく、イノなどまだ暗いだろうと感じるほどだった。
 さすが火球のランプの元であるパノを産出しているだけはあると言えた。
 パノは輝水湖(きすいこ)の底に沈む、黒い色のどろっとした液体だ。それを純水と混ぜるとなぜか光りだすことが判明したのである。その光は空気に触れるとすぐに失われるが、逆に言えば空気に触れさえしなければ半永久的に光り続ける。
 そのパノは一度に採れる量は限られている上、純水も作られる量が限られている。そのため高額な火球のランプは金持ちの持ち物だった。
 それがこの国では一般の民が持っているどころか街の中に置いてある。
「トルムはお金持ちの国だって言われているけど…なるほどね、よくわかったわ」
 ごく一般の民であるサティーナにはその光景はまるで夢の中のように感じた。
 しかしアキードにはそうは見えていないようだ。
「そうか? 火球のランプは壊れない以上一度置いたらそのままだろう? 火を使う割合の多いターシアの方が金持ちな気がするけどな」
 リーコット街道はそのまま首都の中心を目指しており、その道幅は街道よりも広かった。
 その街道の両脇はしっかりした店が立ち並び、道の真ん中には巨大な火球のランプが等間隔に設置されている。
 サティーナはその道を人の波に押され、ぽかんとしながらしばらく歩き、はっと我に返ると隣を見た。
 以前のようにはぐれてしまったのではと思っていたサティーナの隣には、ちゃんとアキードが歩いていた。
「えっと、船に乗るのよね」
 ほっとしつつ、確認するように尋ねるとアキードは一つの店に向かった。
「その前にやることがある」
「?」
 アキードのあとについて店に入ったサティーナの目には意外なものが映し出されていた。
 入り口からすぐ目の前、そこに五角形の楯と交差する剣と杖。――クラム・パルテ神殿の紋章である。
「アキード…ここって?」
 呆然とその布地を見上げていたサティーナの腕が引かれ、ようやく歩き出してから目の前の元聖騎士に尋ねる。
「あれは牽制だ。これ以上踏み込むのに覚悟はあるかっていう」
「覚悟?」
 言葉の単語の意味がわからないほど、一時的に思考を止めてしまったサティーナは、気がつけば店の奥にある部屋へと足を踏み入れていた。
 店の入り口は明るく神聖な印象があったにも関わらず、奥の部屋は暗く、陰湿だ。
 呆然と部屋の扉に寄りかかっていたサティーナの耳に、ここにいないアキードの声が聞こえる。
「ガラム。悪い、使わせてもらうぞ」
「あれ〜? 珍しいお客だ。トリウェルならいいよ。勝手に使ってちょーだい」
 アキードの声に答えたのはなんとも緊張感のない声だった。
 見れば部屋に敷き詰められた絨毯の下から何か感じて、ひどく胸騒ぎがした。
(これって、もしかしたら)
 サティーナはこの感覚に覚えがあった。
「始める」
 アキードが姿を現し、サティーナのいる扉を通り抜け、多数の人間が立ち止まったためにできた絨毯の凹みに足を止める。
 アキードが口中でなにか小さな言葉を発している。
 サティーナの胸に得体の知れない動悸が襲ってきて思わず胸元の服を握り締めた。
(やっぱりそうだ! 結界があるんだわ)
 父が定期的に結界を張るのは知っている。その度に首の後ろがちりちりし始め、一瞬にして心臓が早鐘を打つ。
 小さな時はそれだけで吐き気がして、しばらく寝込んだこともある。
 だが、アキードがなにやら唱えている物は父のそれとは違う雰囲気がある。父の結界は全身を包み込むような感覚があるが、アキードのそれにはそうした感覚がない。
 ドキドキするのは確かだが、何か根本的に違うのだ。
 やがて部屋の中央に黒い塊が現れ、形を成し、絨毯の上に降り立った。
「あ!!」
 思わず声をあげその黒い塊を指差した。
「オレはこれで呼び出されるのは嫌いだ」
「非常時だ。我慢しろ」
 アキードの言葉に仕方なさそうにため息を吐き出す。
 黒い塊は大型犬の形をしており、ここしばらく目にする機会が減ったアキードの契約魔だ。
「え? え? でも、どうして? そんなことより! 大丈夫なの?」
 ここはアキードの敵がいるど真ん中だと、ノアを見て唐突に思い出した。
 そんなサティーナを見てノアがもう一度ため息をつく。
「もしかしたら」
「もしかしなくてもそうだ」
「そうか」
 何を納得したのか、ノアがうな垂れた。
 そんな二人のやりとりを、首を傾げてみていたサティーナを無視して二人のやりとはさらに続く。
「さて、しばらくぶりだ。成長したか?」
「…………うるさい」
 アキードのからかいの言葉にノアが唸るように言葉を紡ぎ出す。
(やっぱりアキードって魔種より性質が悪いわ)
 完全にやりこまれている魔種を目にして、サティーナは改めてアキードの評価をそう再確認した。
 ぶつくさ言いながらもノアはその場に座り目を閉じた。
 すると黒い霧のように形を崩し、ぼやけ、ふわりと上へ伸びた。
 そしてそのまま形が固まり、サティーナの前に現れたノアは人の形を取っていた。黒い髪に黒いマントをつけ、不機嫌そうに盛大なため息を吐き出した。
 サティーナはその人型のノアにぽかんと口を開けてみていたが、次いで大きく息を吸って叫んだ。
「嘘よ! どうして? こんなの詐欺だわ――!!」
 絶叫したサティーナにアキードは珍しく口を押さえ笑いを堪え、ノアはさらに不機嫌になり目が据わった。
 それもこれもノアの人型の姿にあった。
 目の前にいるのは生意気そうなつり目に、少しくせのある黒い髪が印象的な「少年」だったのだ。
 普段、大きな獣の姿でいるときの態度から、誰がこんな可愛らしい姿を想像できただろう。
 しばらく穴の開くほど見つめられた少年は不愉快そうにまたため息をついた。
「だからイヤなんだ」
 幽鬼の森で人型は面倒だと言っていた言葉を思い出し、サティーナはなるほどとどこか納得した。
 外見年齢は十五歳くらい。身長もサティーナより少し小さい。声は柔らかさを持ち。まだ幼さの残る顔立ちはいやに整い、微笑めば誰をも虜にしてしまいそうなほどの魅力があった。
「それなりに成長したな」
「……うるさい」
 アキードはノアの姿にそう感想をもらし、ノアはやはり不機嫌そうに声を洩らす。
 年相応の声と表情に衝撃の去ったサティーナはふと微笑んだ。
「笑うな」
 ぎろりと睨みサティーナの笑いを咎め、ノアはアキードの前まで歩く。
「どのくらいもつかはわからないが」
 アキードは歩いてきたノアに薄い板を差し出した。それはあの偽装符を挟んでいる薄い板であるとサティーナにもわかった。
 ノアはそれを受け取りしばらくみていたが、やがてマントの下にしまった。
「オマエの偽装符だ。それなりにもつだろう」
 対等の立場にいるのだろうが、普通より身長の高いアキードの前に立つノアはさらに小さく見えた。
「なんだか……」
「ん?」
「なんだ?」
 呟きに二人同時にサティーナを見るが、サティーナはにっこり微笑むと、なんでもないと首を横に振った。
(兄弟みたい…なんて、絶対言えない!)
 容姿が似ているというわけではないが、黒髪にどこか似た雰囲気を持っている二人はおそらくほとんどの人間が兄弟と間違うだろうと思ったのだが、そんなことを言えばどんな反応が返ってくるのか、簡単に想像できサティーナは言葉を飲み込んだ。