食事を済ませ、豪商の婦人方の従者たちが騒がしく動き始める頃、サティーナたちは茶店村を後にした。
入るときは何の警戒もなく入ったのだが、あれだけのことがあったためかサティーナは妙に緊張して守衛の間を通り抜けた。
元の街道に完全に出るとようやく安心して、もう一度村を振り返る。
「なんだか茶店恐怖症になりそう」
そんな呟きにアキードは思わず吹き出した。
「笑うことないでしょう」
笑われて不機嫌になるサティーナをよそにアキードは口元に笑みを浮かべている。その横顔を見てそういえばと思い出す。
「アキード限定の結界だったのよね?」
「ああ。多分な」
「私巻き込まれたのよね?」
「おそらくな。あいつはサティーナを知らなかったみたいだし」
アキードの言うあいつがあの恐ろしい魔種だということは何となく察した。
「やっぱり知り合いだったのね」
確認のように尋ねるとただ頷いた。
「サティーナがどうして結界に入れたのかは正直わからない。まあ、ハルミスだからな。常識的なことは考えないほうがいいんだろう」
ちらりと横目でサティーナを見る。
その目が何か言いたそうにしたが、結局何も言わずに前を向いた。
意味深な仕草に首をかしげ口を開きかけるとアキードが先に話し出した。
「マゼクオーシを知ってるか?」
唐突な質問にサティーナは一瞬ぽかんとしたが、その名前が示す意味を思い出し、聞いた話を思い出す。
「えっと、イノと同じ自由都市で、ヴィーテルの国境検問所があるところでしょう?」
実はターシア、トルムの二国間に実は明確な国境は存在しない。唯一明確な国境を持っている国がヴィーテル国である。
国境といっても川である。名前をロージー川といい、上流にホルトロ、下流に自由都市マゼクオーシがあり、輝水湖への河口付近にフレンダがある。
トルムから進み、橋を超えるとヴィーテルということだけは昔から決まっていた。しかし時代が流れトルムからの商人が増えると、当然ヴィーテルはその橋に検問所を設けた。
その検問に旅人が足止めを食うために休憩所ができ、茶店ができ、宿屋ができ、そうこうしているうちに一大都市にまで発展を遂げた。
今ではその橋の両側に街があり、検問所以外は自治が認められている。
「マゼクオーシには簡単に入ることができるが、問題はその先。検問のある橋をどうやって渡るかだ。抜け道もあるがかなり危険な上に金がかかる。契約魔がいればあのくらいの距離はなんでもないだろうが…」
あいにくとサティーナに契約魔はいない。
「とにかく、マゼクオーシに入ったら自警に声をかけろ」
「自警に?」
アキードの提案にサティーナは驚いた。
マゼクオーシは自由都市だ。イノのように自警が存在していてもおかしくはないが、国境があることから考えれば敵であるフロストが何らかの罠を張っていると考えて間違いない。
「自警に声をかけて平気だと思う?」
それは捕まえてくださいと言っているようなものではないのか?
サティーナの考えていることは十分よくわかっているアキードは先を話した。
「自警本部に行ってこう言うんだ。ハーディス・ウェインの妹でトマス・ハリスの恋人だ。そう言えばおそらく怪しまれずにトマスの所までいける」
「そのトマスって人には怪しまれるんじゃない?」
覚えのない恋人が会いにきたと言われても、その人物が怪しむだろうことは簡単に予測できる。
「トマスはマゼクオーシの自警をしているが本来はジュメル卿の配下だ。そいつに会えばジュメル卿にも会える。…ただ、そう簡単にはいかないだろうな」
ヴィーテルに近づくほど、ジュメル卿に近づくほど、敵にも近づいているということだ。間違いなく彼らはマゼクオーシに罠なりなんなりを仕掛けているはずだ。
「どんな人?」
全く知らないで行って別人でしたじゃ笑えない。
アキードは外見を思い出しつつ話す。
「金髪青目の生粋のヴィーテル人だ。年は二十二。かなりの遊び人で、聖騎士だ」
「え?」
最後の言葉に反応する。
「聖騎士って神殿にいなくてもいいの?」
「本来は神殿にいなければならないが、本人と神殿が同意すればいる場所は関係ない。ただ、何かあったとき自分の家族よりも神殿を優先しなければならないがな」
淡々と語るアキードには家族はない。
神殿が孤児を育てる理由もそこにあるのかもしれないとサティーナは一人沈み込んだが、そんな様子を気にすることもなく話す。
「だから王女の侍女をしているメリーナは神殿との縁を切ってる。あいつもたしか貴族の娘だったはずだ」
意外な人物の名前まで出てきてサティーナは一瞬考える。
「……神官様もそうなのかしら?」
サティーナの言う神官様は一人しかない。
「アーサリー様は孤児だってきいたな。神殿の三分の一は孤児だぞ」
何気なく視線をサティーナにやってアキードは少し気まずそうに頭を掻いた。
「…話が逸れたな。まあ、トマスに会えば多分わかる。ふざけた奴だが頭は切れるし、ジュメル卿の配下でもあるからな」
「もう一つだけ。ハーディス・ウェインって誰?」
「暗号だ。それで反応しなければ別人だ」
ということはそれで反応する人がトマス・ハリスということだ。
サティーナはもう一度アキードの言った台詞を復唱して覚えた。
その日も一日歩いて夜が更けてくるとふとアキードが尋ねた。
「茶店に入るか?」
この質問にサティーナは渋い顔をして唸った。
「う〜ん。昨日はちゃんとベッドに寝たし…でも安全が一番だし…」
その後の言葉は出てこなかったが、いいたいことは考えずともわかる。
「もうすぐトルムだしな。今日は野宿にするか」
「そうしてもらえると安心です」
かしこまって言うサティーナにアキードは声に出さずに笑った。
とはいっても林などない草原の真っ只中。身を寄せる木陰もなく、それはそれで不安なものでサティーナはランプの明かりを頼りにあたりを見渡した。
遠く移動している光と沢山の止まっている光が見える。おそらくそこが茶店だろう。
「こっちだ」
手を取られ街道をそれると、腰ほどの高さのある草を掻き分け草原の真ん中に出た。
「街道に寝るわけにいかないからな」
それはそうだとサティーナも頷く。アキードは剣で適当に草を払うと荷物を置いて横になった。ある意味大胆である。
「雨、降らないといいわね」
それよりも霧が出ることをサティーナは思い出し、ふと装備を確かめた。フードつきのマントなのでフードを被って寝ることに決め、いざ横になろうと下を見る。
アキードはすでに横になっている。その隣にサティーナが横になれるくらいの場所があるが、ふと思った。
(アキードと並んで寝るの?)
いや、その選択しか残ってはいないが、今までの野宿は森で、焚き火を挟んでいたり、木に寄りかかって寝ていたりで同じ方向に並んで寝ることはなかった。
「火を消すぞ?」
「わ! 待って!」
立ち尽くしたサティーナにアキードは怪訝な目を向けランプに手を伸ばす。
暗闇でランプがあればそこに人がいるぞといっているようなものだ。魔種の中にも火に寄ってくるものがいることも学習済みだ。
サティーナが横になったのを見計らいランプの灯りが消される。
訪れた真っ暗闇で何も見えない。枕にした荷物の具合が悪くちょっと頭を上げて直す。
ぱたりと改めて横になり目を閉じるがなぜか落ち着かない。
目を開けるがやはり真っ暗だ。耳を澄ませるがわずかに吹く風の音しかしない。隣にいるはずのアキードの気配も感じられず、突然心臓がどきどきと脈打つ。
まるで深淵の闇に一人放られた気分だった。
(なに? どうして? 大丈夫よ、アキードは隣にいるもの)
胸に手を置いて大丈夫、大丈夫と心の中で繰り返す。
さわりと風吹き、草が揺れる気配がする。そっと目を開けると星が瞬く夜空が見えた。闇ではないとわかりほっとため息を吐き、アキードのほうへ顔を向ける。
星明りで隣が見えるほどサティーナの目は良くないため、当然何も見えない。
しばらくじっとそちらを見ていたが、動く気配も、息遣いも何も聞こえない。
(いるのよね?)
なぜかそんな不安がよぎる。横になっていた隣に寝たのだ、当然そこにいるはずだ。
でも、不安になるほど何も感じない。
しばらく逡巡したのち、サティーナはそっと気配のない闇へ手を伸ばした。
「っ!」
その伸ばした手を迷いなくつかまれ、サティーナは思わず悲鳴を飲みこんだ。
反射的に引っ込めようとする手を強く引かれ、服の上――おそらく胸の辺り――に置かれ、その上に大きな手が乗る。
その場に固定された手の平から伝わる息遣いにほっと胸を撫で下ろす。
「偽装符だ」
ぽつりともらされた声はすでに眠りに入っているように、どこかぼんやりとしていた。
サティーナはその言葉で納得した。
説明では気配を偽ると言っていたが、どうやらそれ以上の働きもあるようだ。
なんにせよ、大きな手と呼吸を確認できていることでサティーナは安心し、そのままアキードに手を預けたまま眠りについた。