六話 輝水湖の助け舟
 目を覚ますと目が腫れぼったく瞼が重い。
 起き上がろうとして頭も重く、頬が突っ張る感じがする。
 そっと手を当て、夕べの夢を思い出す。
 何か悪い夢を見たのは覚えているが後のことは上手く思い出せない。
(なんの夢かしら? でも、なんだか…)
 間違いなく泣いていたのだとわかり、そのせいか昨日まであった胸のもやもやもなくなっていた。
「すっきりしたのはいいけど、ひどい顔かも」
 苦笑し、伸びをしてから顔を洗うためにベッドから降りる。
 下にアキードが寝ているはずだったが、仕切りのカーテンはなく、荷物もないことからすでに起きているらしい。
 昨日も借りた洗面で顔を洗い、ついでに体も拭い気を引き締めて食堂へ出た。
 すでに何人かの旅人が起きて食事をしている。
 さして広くはない食堂に、見慣れた黒髪の男性が背中をこちらに向けて食事をしていた。
「おはようございます」
 にっこり微笑んで挨拶をするとアキードが心配そうに顔を上げる。
「おはよう。大丈夫か?」
「うん。なんだかすっごくすっきりしてるの。あ、すいません」
 サティーナは自分の朝食を頼む。夕べはあまり食べていないのでお腹が減っていた。
「食欲があるなら大丈夫だな」
 少しだけ表情を柔らかくして食事を始めるアキードに、サティーナは頷いた。
「ああ、そうだったわ。これ返すわね。ありがとう」
 そういって差し出したのはあの首飾りだ。夕べからずっとサティーナの首にかけてあったのだ。先ほど顔を洗うときにようやく気がついた。
 夕べも顔を洗ったのにその時はまったく気がつかなかったことを考えると、やはり大丈夫ではなかったのだろう。
 アキードは受け取るとすぐに自分の首にかけ服の下へと滑り込ませた。
「そういえば、アキードは大丈夫なの? 怪我してない?」
 昨日はそんなことを考える余裕は全くなかった。
「ああ、大丈夫だ。お前がノアを呼ばなかったらかなりまずかったが」
 あの時アキードにノアを呼ぶ気はあったのか定かではないが、よける気配がなかった。何か考えがあったのだろうが、それでもそれはやはり嫌だった。
「なんか結局足手まといになってしまってるわね」
 少し落ち込み気味に呟く。
「そうでもない。逆にいい方向へ転んだ気がする。まあ、まさかノアを呼べると思わなかったけどな」
 無表情ながら目が優しい。それを認めてサティーナもほっと気を緩めた。
「はい。お待ちどうさま」
「ありがとうございます」
 運ばれた朝食に自然と笑顔がこぼれる。
 ふっくらとしたパンに薄く味付けされた鳥肉。少しの野菜と目玉焼きにもちろんお茶がついている。
 夕べも飲んだが味は覚えていない。
 少し黄色い色をしたお茶はほのかに甘く、香りがよい。
「トルムには明日中につけるのよね?」
 野菜を口に運びながら尋ねるとアキードが頷いた。
「ああ。この調子で行ければな。ところでお前、ヴィーテルに知り合いはいるのか?」
 アキードの質問にサティーナは首を横に振った。
「どうやって面会するつもりだ?」
「え?」
 きょとんとパンをちぎった手を止めた。
 その様子にアキードは盛大なため息を吐きだした。
「最初から思っていたが、お前もしかしたら何も考えずにここまできたんだろう。まさか、門前でおじい様に会いにきましたって言えば通してもらえると思ってるのか?」
「できないの?」
 この答えにアキードは頭を抱えた。
「門番がとてつもなく頭のいい奴なら問題ないが、普通は追い返される。それ以前に、ヴィーテルに入って無事でいられると思うのか? 言ってみれば敵陣の真っただ中だぞ」
 そこまで言われて初めてそうだと気がついた。
「えっと、でも、ほら。ジュメ…おじい様の契約魔が来てくれると思うけど」
 楽観的ではあるが、その可能性は十分ある。イノまできたくらいだヴィーテル国内なら造作もないだろう。
 しかし、アキードは否定的だ。
「その可能性はなくはないが、かなり低い。どんな契約魔でも契約者のほうが優先される。おじい様は今それどころじゃないだろう」
 たしかに。娘殺しの容疑をかけられ蟄居中というのであれば面会はさらに難しいだろう。
「それに、そこへ行くまでに敵に捕まる可能性のほうが高い。この先、特にトルムを出てからは」
 トルムを出てから。
 そこでサティーナも唇を噛んで考えた。
 アキードはトルムまでしか一緒にいてくれない。それはもうだいぶ前からわかっていたことだ。
 今まで一緒にいたのは二人の道がたまたま同じだったからで、それはトルムで終点を迎える。
 その先はサティーナの一人旅。
 ちぎったパンを手にしたまま考え込んでしまったサティーナを不思議に思ったのか、茶店の店員が声をかけてきた。
「大丈夫かね?」
「え? ええ、あの大丈夫です」
 側に立つ恰幅のいい男性を見上げて愛想笑いを浮かべた。
「夕べも思ったが、新婚早々喧嘩はよくないぞ。どうせトルムまで行くんだろう? ここからはあとわずかな時間だ、もっと楽しくしないとな。ほら、最近はトルムまでの道のりで喧嘩して別れる夫婦もいるらしいけど、俺はそうなって欲しくないな」
 中年の男性は腕を組んでうんうんと頷きながら話す。
 その話の内容にサティーナは思わず笑ってしまった。そのサティーナとは対照的にアキードは呆れたように窓の外へと視線を向ける。
「ん? なんだ。喧嘩じゃないのか?」
「はい。喧嘩はしてません。ちょっと心配事があって…」
 困ったようなサティーナに店員は二人を交互に見た。
「もしかしたら新婚じゃないのか?」
「ええ。残念ながら」
 サティーナはなぜか楽しそうにパンを口にいれ、またくすくす笑う。アキードもそれをちらりと見てから食事を再開した。
「心配事ってなんだね?」
 しかし、店員は去ることなくこちらの事情に首を突っ込んできた。
 アキードは無視を決め込んだようだが、サティーナは気さくに答える。
「えっと、ヴィーテルに病気のおじい様がいて、できるだけ早く向かいたいんですけど。なかなか思うようにいかなくて」
 事実とは違うが困っているのは確かだ。
 この先。特にトルムからアキードもいないし、ノアの助けもなしだ。
 サティーナ一人で歩いていては襲ってくださいといっているようなものだし、かといって馬車の相乗りも初めの時点で危険だと知った。
 そっと胸元に手を当てそこにある物を確認した。
 その仕草が店員には祈るように見えたのか、とたんに涙目になってサティーナの肩に手を置いた。
「お嬢さん。気を落とさないで。なに、大丈夫だ。トルムからは船も出てる。選びさえしなければ二人くらい乗せてもらえるさ」
 そう激励されサティーナは首をかしげる。
「船?」
「ああ。知らないのかね? トルムには港がある。行き先はロージー川の河口のフレンダっていう小さな町だ。マゼクオーシまですぐだよ」
 予期せぬ情報にサティーナは目を輝かせた。
「本当? ありがとう。トルムに行ったら聞いてみます」
「ああ。そうするといい。よかったなぁ」
 店員は心底良かったいう顔をして去っていった。
「アキードはどう思う?」
 ポンシェルノ以外を知らないサティーナは、トルムというよりは世界全体に関して知識が乏しい。判断を委ねるにはアキードを頼ったほうがいいだろう。
 無視を決めこんでいたアキードも先ほどの会話には反応を示していた。
「そうか。船か。すっかり忘れてた。俺も利用したことはないが、確かにいい手だと思う。トルムからヴィーテル国の国境まで馬車で普通八日ほどだが船なら大幅に短縮できる」
 速ければ速いほうがいい。
「問題はトルムにつく時間だな。夜中だと船は出ないはずだ」
「それは着いてから考えるわ」
 当面の移動手段にとりあえずは船をと、サティーナは心に止め空腹を満たすことにした。