結界が消えたときにアキードの倒した男たちはどうなったのか、気になったサティーナが聞いてみると、とんでもない答えが返ってきた。
「ああ。ノアが一時的に隠したが、明日の朝には転がっているだろうな」
「…あの場所に?」
 無表情に肉を挟んだパンを食べながら頷く。
 あれからまだ時間はたっていない。泣いた顔を洗いさっぱりとしてから、軽い食事をしているところだ。
 あれだけの男が地面に倒れていたのだから大騒ぎになっているかと思っていたのだが、予想に反してまったく騒ぎにはなっておらず、逆に何もなかったような穏やかさだった。
 そのため聞いたサティーナの質問だった。
「え? それじゃあ、あそこにはまだあの人たちが倒れているの?」
「別の空間にいる状態だな」
 その言葉にサティーナは思い切り首をかしげた。
「隔離結界を張ったってこと?」
 隔離結界は魔種にしか張れない。そう言っていた。
「小規模なものをな。媒体が残ったままだからそれを利用した」
「そうなの」
 サティーナはあの時にあった出来事をようやく整理し始めたのだが、一時的に記憶が曖昧だ。そういえばあの後、ノアが何をしていたのかはまったく知らない。
 泣いている時すでに結界を張ったのだろう。そうでなければその時点で大騒ぎだ。
「食べないのか?」
「え? ああ、うん。…もういいわ」
 フォークをくるくる回すだけであまり手のついていない食事に、アキードが心配そうに尋ねた。
 お腹は減っているが、食べても喉を通っていかないのだ。知らずため息もでる。
「あんな目に合ったんだ。精神的に疲れたんだろう。もう休んだほうがいい」
「うん。ありがとう。そうさせてもらうわ」
 疲れた笑みで席を立つと借りた部屋へと向かった。
 ここはあの媒体があった茶店で、借りたのは部屋ではなくベッドだ。店の一階奥、狭い場所に作り付けの二段のベッドが左右に設置されている。用心のためサティーナが上。アキードは下だ。
 荷物を下から放り、自分も上がる。靴は昇ってから脱ぎ足元へ置く。
 横になるとどっと疲れがやってきてすぐに睡魔に襲われた。
 
 
 闇の中、サティーナは何かに追われていた。
 向かう先には光が見える。
 とにかくそこまで走らなければ命がない。そんな危機感の中、走っている。
 急げ、急げ。頭の中で誰かが叫ぶ。
 急がなきゃ、急がなきゃ。サティーナも必死で走る。
 もうすぐ光に手が届き、この闇から出ることができる。
 目の前にある安堵に速度を緩めた、まさにその瞬間。
 首にひやりとした感触があたる。
 刃物ではない。それにしてはあまりに太い。
 棒でもない。それにしては柔らか過ぎる。
「でもその前に、あなたのほうから消えてもらいましょう」
 鮮明に耳に残る冷たい声に死の恐怖が蘇った。
 
 
「っ!!」
 とっさに起き上がり焦点の合わない目であたりを見回す。そこはカーテンに閉ざされた狭いベッドの空間。その場所にはサティーナ一人しかいない。
 そっとカーテンをめくり部屋を確認する。暗さに目が慣れているため、外にある火球のランプの明かりで部屋の中が見て取れた。
 向かい側にカーテンがされているベッドがあるだけで、当然誰もいない。
 浅い呼吸を繰り返し、ベッドに引っ込むと枕を抱えて丸くなった。
 唇を噛んでカーテンを凝視する。そうしないと涙が溢れてきそうだ。
 壁に背を向けているにも関わらず、今にも誰かに首を捕まれそうでひどく落ち着かない。知らず心拍数が早くなり、冷や汗が体中からふきだす。
(お母様。お父様。兄様…怖いよ!…もういや! お願い、誰か来て!!)
 今まで死は自然にやってくるものだと思っていた。誰かに奪われるなど、それは外の世界の話であって、サティーナには関係のないことだった。
 しかし、この旅に出てから死は常に隣にいる。
 それでも今まで考えずに済んだのは、死と直面することはなかったからだ。
 人が死ぬのを直接見たわけではないし、自分にそれが降りかかってきたわけでもなかったからだ。
 それが、ここに来てあまりにも死に密接した出来事が多すぎた。
 エントで見た母の髪。
 髪を切れるという事は、首も切れるのだという脅しだ。
 あの使いはサティーナに決断を迫ったのだ、母の生死を。
 そして、サティーナは選択した。使いの手を取らないほうを。
 それはつまり、母の手を離したと同じではないか? 死んだと思えとは言われたが、それはただの言い回しであって、事実ではないはずだ。
 どくんと心臓が一つ大きく動いた。
(お母様。お母様。どうしたらよかったの? 私は間違ったの?)
 後悔ばかりが思考を埋める。
 この旅が終わったら、果たして本当に母に会えるのか?
 もし会えなかった場合、自分は生きていていいのだろうか?
 睨んだカーテンがどんどん歪んでいく。胸の痛さに呼吸も途切れがちだ。
(あの時に死んでしまえばよかった)
 耐え切れずぽたりと枕に雫が落ちる。
 一つ落ちると、次から次へと落ちていく。
 枕に顔を埋め、目に見える世界を閉ざした。
 このまま闇に沈んでしまえたらどんなにいいだろう。
 
 枕を強く抱き、体を縮めて息を詰めていると体中が熱かった。
 視界も思考も、音も匂いも拒否したサティーナの手に、冷たいが優しい大きな手が触れた。
 ドロドロに溶けた思考と体に、その冷たさは涼風のように入り込む。
 少しだけ枕から頭を持ち上げるが、何もかも億劫で何もしたくない。
「サティーナ」
 静かに名を呼ばれ、髪を、肩を大きな手がゆっくりと撫でていく。
 癒すように、労わるように。
「サティーナ。もういい。これ以上進むな」
 触れる大きな手が、枕を握り締めるサティーナの手を取って包み込んだ。
「もういい。お前は良くやった」
 優しく甘やかすような声がサティーナの耳に届く。
 ふわりと体を包み込まれ、子供をあやすように規則的にぽんぽんと撫でられる。
「もういい」
 聞こえる声はすぐそこで聞こえる。その声と一緒に包み込む鼓動も聞こえた。
 少しだけ頭を動かすとここ最近よく知っている匂いがした。
「……アキード」
「ん?」
 ぼんやりと呟くと、返事はくっつけた体を通して直接頭に響く。
 低くて落ち着く声だ。
「アキード」
「なんだ?」
 もう一度呼ぶとちゃんと返事が来る。
「私、ここにいてもいい?」
 生きていてもいいのだろうか? 本当はあのときに死ぬべきだったのでは?
 今の自分を埋め尽くす自分への猜疑と不安に、答えが欲しかった。
「いたくないのか?」
 しかし、返ったのは質問。
「ここに、いたくないのか?」
 もう一度、明確に尋ねる声にサティーナは顔を上げた。
 枕の向こうに自分の手が見える。その手は自分以外の大きな手に握られている。存在を確かにここにいるのだと証明するように。
「私は、ここにいたい」
 その手を見つめてはっきりと答えた。
 サティーナの出した答えに満足したように、握っていた大きな手が離れ、優しく抱きしめる。
「ならいいだろう。ここにいても」
 いたいのなら、いていいのだと。そう言われた気がして、サティーナは頷く。
「そっか。そうなんだ」
 他人がダメだといっても、自分が認めればそれはそれだけで肯定になる。
「そうだね」
 今まであった不安が信じられないくらいキレイになくなった。
 それを感じてサティーナはほう、とため息を吐き出した。
 ゆっくり体の力を抜くと、横にある鼓動に寄りかかる。
「ありがとう。いてくれて」
 そのまま緩やかに眠りに身を委ねると、まだ熱い頬をひんやりとした手が触れた。
「ゆっくり休め」
 安心する暖かさと、眠りを誘うように聞こえる鼓動に包まれ、サティーナはゆっくりと眠りへと落ちていった。
 
 
 火球の淡い光と静寂が部屋を満たしていた。
「間に合ったか?」
 泣き疲れたのか、心の負担を軽くできたのか、安心しきって眠るサティーナを抱きしめながらアキードは問うた。
「ああ。さすがに今回はきつかったみたいだな」
 頷き目を細める瞳は黒と青。
「お前まで関わっているのか?」
 アキードが厳しい顔で問うと、黒ずくめの男は肩をすくめた。
「まさか。お前の師匠の蓋に灼石が鍵をかけているんだ、俺の出る幕はない」
「それにしては実にいい間で現れたな」
 疑いの目を向けるアキードに、男は笑みを深くした。
「壊したくなかっただけだ。サナは俺の契約者候補だからな」
「は?」
「お前らしくもないな。俺がどうしてサナの居場所を的確に捉えられていると思っているんだ?」
 悪戯っぽいその瞳はサティーナに向かうと慈愛の眼差しに変わる。
 呆然とその言葉と視線の意味を考えた。
 いや、考えるまでもない。彼が先刻言ったばかりだ。
「ちょっと待て。サティーナは覚えてないぞ? いつ会ったんだ?」
 アキードの疑問に男はくつくつと喉で笑った。
「さあな。そういえば、あの時も助けを求められたな」
 とぼけるくせにしっかり覚えているようだ。
「サナは強い。蓋の上に自身で作った蓋をしている。でもそれは間違いなく心に負担をかけるものだ。だから自己防衛のために思考が鈍い…」
 ゆっくり手を伸ばしそっと泣きはらした瞼に触れる。
「でも今回のように容量を超えるとたがが外れることもある。側にいる間はしっかり守ってやってくれ」
「ああ。わかった」
 真剣に魔種に頼まれ、アキードは驚きつつも真剣に頷いたのだが、とたんに目の前の男の目が険しくなった。
「わかってるならいいが、今回サナの容量を一杯にしたのはお前なんだからな。自覚しろ」
 男の怒気で気温がすっと低くなり鳥肌が立った。
「悪かった。気をつける」
「わかればいい」
 ふっと空気を和らげ男は「じゃあな」と軽く手をあげてから消え去った。
 それを見送りアキードはため息を吐き出した。
「とんでもないやつだ」
 抱えるサティーナをそっと見ると、悪い夢を見ていたせいで髪が汗で額に張り付いている。それをそっと払ってから横にしてやる。
 ベッドから降りようと移動すると服を捕まれた。
 まるで小さな子が母親を求めるようでアキードは知らず微笑んだ。
「大丈夫だ。ここにいる」
 額に手を乗せそう言うと、サティーナはふわりと笑い手を離す。
 その様子にあの黒ずくめの男の言った言葉を反芻する。
「側にいる間は…か」
 それもすぐに終わりとなることに、今さらながら気がついた。

五話 了