「サティーナ。お前の声はとても大きい。だから彼らに接するときは十分気をつけるんだ。いいな? たとえ声に出さなくても、彼らにはとてもよく聞こえる」
 父の言う声は「心の声」を指していた。それを規制するのは自分では難しく、父の友である神官の手も借りて蓋をした。
「うん。絶対に大声出したりしない」
 何も知らない幼いころは無邪気にそう返事をした覚えがある。
 父はゆっくりと微笑んで頷いた。
「お前はハルミスの…俺の子だ。灼石でなくてもそれは揺るがない事実だ」
 自分に何か特別なものがあるのだと気がついたのは、もっと後。でもその時の父の忠告はその時からずっと心に留めてある。
 
 
 アキードが目の前で殺されるのは嫌だ。
 それが自分のせいだとしたらもっと嫌だ。
 嫌ではすまない。自分を嫌悪し、この世から抹殺しても足りないくらいだ。
 ここまでこれたのはアキードがいたからで、この先この人を犠牲にして前に進めるかと聞かれれば、間違いなく無理だと言うだろう。
 父との約束ではある。してはいけないと自分でも自覚がある。
 それでも、今はアキードのほうが大事だと思った。
 その瞬間はそこまで考えていなかっただろう。一瞬で、それはダメだと思った。
 思ったときには叫んでいた。
 世界の果てにいたとしても届くように、できる限り早く来いと祈りを込めて。
 
 
「ノア――!!」
 
 叫んだと同時にその祈りが届いたことを知った。
 物理的な衝撃はなく、ただ圧縮された空気の壁を通り抜けたような圧力が体全体に感じられた。一瞬世界の音がかき消され、それまで隔絶されていた世界が一瞬のうちに吹き飛び、ざわざわと沢山の気配がする。
「小娘…」
 後ろから呆然とした声がかかると、アキードが一瞬で目の前にまで詰め寄った。
 サティーナの背中を刈り取るように剣を一閃させると、よろけるサティーナを抱きとめる。
「今日のところは引いてあげるわ。でも、トルムでは覚えていなさい」
 金髪の女性は言葉を残しその場から消え失せた。
 サティーナには見えていなかったが、それでも終わったのだと気配で察し、抱きとめられているアキードの腕に顔を埋め、服をきつく握りしめると一気に感情があふれ出す。
「…ふっ…ぅ…」
「サティーナ…」
 声を殺して泣くサティーナにアキードも呆然と、それでもなだめることを忘れずに、しっかりと抱きしめた。
「封印はこれか」
 サティーナはその声に目を向けると、涙でぼやける視界に黒い塊を認識できた。
「…っ……」
 声を出そうとして息が上手くできず、ただしゃくりあげることしかできなかった。
 恐怖からの解放と、助かったことへの安堵と、その他色々と感情が押し寄せて、サティーナは感情を整理できずにただ泣いた。
 広場はノアが現れたことで結界が吹っ飛び、元の様子を取り戻していた。
 そのため広場の真ん中でアキードとサティーナは抱き合っているのだが、無心に泣くサティーナを持て余し気味のアキードに、人々の目は温かかった。
「大丈夫か?」
 ひとしきり泣き終えたサティーナにアキードが声をかける。
 安心させるように髪を撫で、ゆっくりかけられたその声に、少し落ちつきを取り戻し頷く。
「とりあえずここから離れないか?」
 ふとその声が耳元で囁かれ、その近さに心臓が跳ね上がる。
 サティーナはアキードの左腕をしっかりと抱きしめて、肩に顔を埋めている。その体をアキードが両手で抱きしめているのだ。
 その体勢に恥ずかしくなり、逆にアキードから体を引き剥がせなくなってしまった。その後を考えるとどうしていいのかわからない。
「え、えと、あの、ご、ごめんなさい。あの…」
 とりあえず、硬く握り締めすぎて強張った手をゆっくり離し、顔を見ないように体を遠ざけようとした途中。背中に回されたアキードの手がそれを止めた。
(え! なに!? 何!? なに!!??)
 今だ感情の整理のついていない頭の中は、入り乱れ真っ白になりつつある。現実逃避目前のサティーナは、顔を真っ赤にして泣きはらした目をアキードに向けた。
 顔を上げれば予想以上に近く、不思議な青緑の瞳がすぐそこにある。その瞳とぶつかって完全に固まった。
「抜き身なんだ」
「………はい?」
 なんの話かもさっぱりわからない混乱状態のサティーナに、視線だけでそれを示す。
 ぎくしゃくと視線を落とすと、二人の体に挟まれるように剣が隠してあった。
 支えた体制でそのまま泣き出したサティーナを引き離すことも、抜き身のままの剣を人前に晒すわけにもいかず、できるだけ見えないようにしていたのだ。
 それを見て、何とか落ち着こうと努力するが、アキードが剣を手早く鞘に収め、手を引いて歩き出してからもしばらくは何も考えられなかった。
 気を緩めると後から後から涙が溢れる。
 静かな裏通りにあった低い石造りの塀にサティーナを座らせ、荷物をあさり布を手渡すと、アキードはどこかへ行ってしまった。
 足元にはいつの間にかノアがいて、何かをじっと見つめているようだった。
 ふと視線を感じてか、サティーナを見上げてきた。
「大丈夫か?」
 サティーナは声を出せず、ただ頷いてみせた。
「オマエには驚かされることが多すぎる」
 どこか呆れたように見上げられ、ようやくサティーナは自分のしたことを思い起こした。
「えっと、あの、ごめんなさい、私」
 まだ息が上手くできず、途切れ途切れだが、それでも謝らなければならかった。
「名前、呼んで」
「ああ。かなり強烈だった」
 魔種は気に入らない者に自分の名を呼ばれるのを嫌う。例えそれが通り名だとしてもだ。
 しかし、ノアはどこか面白がっている様子で、怒る気配ない。
「大丈夫か?」
 もう一度確認するように尋ねるノアに、今度は笑顔で頷いた。
「ええ、もう大丈夫」
 アキードが荷物から出してくれた粗い織り目の布で涙を拭き、深呼吸をして息を整えた。
 目を閉じて今の状況を整理する。
 とりあえずの危機は脱したが、今は大丈夫なのか? ノアがここにいるがフロストの契約魔が現れる気配はない。
「そういえば、アキードは?」
「きた」
 サティーナが問うと、ちょうど表通りから何かを持ってやってきた。
(うう、ちょっと恥ずかしいかも…)
 かなりの醜態をさらしてしまった気もする。
 しかし、そんなことはアキードには関係ないのか、もってきた器をサティーナの前に出して、心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫か? 飲んで落ち着け」
「うん。ありがとう」
 茶店の村だけあり、もってきたのはお茶だった。今はただの水でも嬉しい。
 半分を一息に飲み干すと、ようやく落ち着いた。
「あの、それで一体どうなったの?」
 自分がしたことを考えると、今のとっても平和な状況は、本当に大丈夫なのだろうかとかなり心配だった。
 アキードも塀によりかかると疲れたように息をついた。
「何から話せばいいんだか……とりあえず今の状況は大丈夫だ。サティーナがノアを呼んだおかけで、俺の偽装符を吹き飛ばさずに結界だけ壊れた」
 サティーナにはよくわからない説明だった。
「ノアを呼ぶと結界も偽装符も吹き飛ぶって言ってたでしょう?」
 慌しい説明だったが、確かにそう言っていた。
「契約者の俺が、契約魔を呼んだ場合はな。普段ならともかく、結界の中から呼ぶことを考えると、弱い偽装符は確実に消し飛ぶ。今回は俺との繋がりはなかったから偽装符に影響はでなかった」
「簡単に言えば、オレが直接干渉したのは結界だけだってことだ」
 難しい説明をノアがわかりやすく言い直してくれる。
「それで? オマエのその力はなんなんだ?」
 ノアがサティーナをじっと見上げて尋ねる。おそらくアキードも一番聞きたいことだろう。
 サティーナは自分の瞼にそっと触れた。
「私は灼石じゃないけど、ただ、その力が他に働いた。それだけだって」
 自分でもよくわからない力で、どう説明したらいいのかと逡巡したが、事実だけを伝えることにした。
「私もよくわからないの。ただ昔から心に強く思ったことは現実になった。嬉しいも悲しいも周りに影響を与える。私が嬉しいと周りも嬉しい、私が悲しいと周りも悲しい。でも、それだけなら父も放って置いたと思うわ」
 できるだけ心を平坦にしようと一度目を閉じた。
「嫉妬や卑下する心も周りに影響を与えるの。私は灼石じゃないでしょう? その事実が解ってくると色々と考えるのよ。必要ないんじゃないかとか、どうしてここにいるんだろうとか」
 思春期にはよくあることなのだが、サティーナの場合それはとても深刻だった。
「そんな私の黒い感情は一際よく聞こえるらしいのよ。特に魔種には」
 下にいるノアを見て苦笑した。
「ポンシェルノに魔種は入れない。入れるわけにはいかない。でも、呼ぶ私がいる。あそこを守る父の決断は早かったわ。私のこの力に蓋をした」
「アーサリー様の言っていたのはそのことか」
 アキードの問いに頷く。
「多分ね」
「覚えてないのか?」
「さすがに四歳の記憶は曖昧だわ。ただ首飾りはよく覚えてる」
 サティーナはまだ自分の首に掛かる首飾りを手に取った。
 すっかり落ち着きを取り戻したサティーナを見るアキードは、眉を寄せ呟いた。
「四歳からずっとそうなのか?」
「え?」
 乏しい明かりの中でもアキードの瞳が揺れたのがわかった。だがそれもすぐになくなってしまう。
「とりあえず、宿を探すか」
「移動しなくてもいいの?」
 アキードの敵には確実に見つかっている。また襲ってくる可能性は高いのではと、サティーナは危惧したのだが、アキードは荷物を持つとさっさと歩き出した。
「あいつらも一般の人間を巻き込むつもりはないだろう。偽装符もあるし、ノアがどこかへ移動すれば、フロストの契約魔にも気づかれない」
 ふと周りを見ればノアの姿がない。
 サティーナもアキードの後を追いかけて表通りへと向かった。