立ち去る神官の後姿を見送り、サティーナは自分の手首に巻かれた紐をまじまじと見つめた。
「あれ?」
 そこに小さな変化、いや、異常があった。
 神官が結んでくれたのだから、それは当然あってしかるべきなのだが…。
「結び目がない!!」
 サティーナの手首にある紐は凹凸無く、奇麗に一周していた。
「それは一度つけると二度と外せない」
 アキードがため息混じりの説明に、呆然と手首に視線を落とした。
「これってなんなの?」
「それは"火龍(かりゅう)の髭"って呼ばれてる、クラム・パルテ神殿最高の御守りだ」
 真剣な顔で話すアキードが聖騎士という立場にいた事実を踏まえて、おそらく本当の話だろう。
「お守りって、こういうものじゃないの?」
 サティーナは首にかけてある、イノで買ったあの木製の小さなお守りを取り出して見せた。
「お土産のお守りと一緒にするな。お前がもらったそれは本当に守りの力がある。それが切れた時は一度死んだと思ったほうがいい」
 そのくらい危険なものを回避する力があるということだ。
「ちょっと、待って。そんなものもらってもいいの?」
 死の危険から守ってもらえるお守りなら、それ相応の額になるだろう。サティーナはその金額を想像し、青ざめた。
「作った本人がくれたんだから、大丈夫だろう」
「神官様が?」
 あの笑顔の神官はかなりの力の持ち主であるようだ。
「でも、そうね。お父様と親しいみたいだし」
 妙な納得の仕方をするサティーナに、アキードはあの神官から結局サティーナの何を封じたのかを聞きそびれたことに気がついた。
「はぐらかされたか…」
「なにが?」
 サティーナの質問には答えず、自分の手にある物を見る。
 それはサティーナの指で輪を作ったくらいの大きさのコインだ。見た目は金属製だが、色は暗い緑色をしている。よくよく目を凝らしてみると細かい文字がびっしり刻みこまれている。
 その文字はどうやら神官文字のようだった。
「これも何かの護符?」
「まあ、似たようなものだな」
 そういうと服の中にしまい、残りのお茶を飲み干すとさっと立ち上がった。
「行くぞ」
「大丈夫なの?」
 立っているのも辛くて座ったんだろうに、もう回復したのかとサティーナは心配だったが、アキードは何でもなかったように店の人にお金を払っている。
「結局あれって何だったのかしら」
 サティーナは茶店の軒下から空を見上げた。
 もうそこに雨雲は無く、雨も小降りになっていて、このままならすぐに止みそうだった。雲の切れ間から澄んだ青い空が時々見える。
 少しだけぼんやりとその空に見入っていると、ぽんと肩を叩かれた。
 アキードが出発を促す合図をよこしたのだ。
 その後姿を見て、慌てて追いかけた。今度こそ、言いそびれている決心を伝えねばならない。
「アキード、あのね、私…」
 広い背中に声をかけたが少しだけ言葉に詰まった。
「前の偽装符は七日もった。それがわかっていれば大丈夫だ」
「え? あの…」
 どうやらサティーナが伝えたいことがわかっていたようだ。
「お前は聞き分けがいいからな。どうせそんなところだろう」
 そこで言葉を切ると足を止めて振り返った。
「俺はどちらかといえば符術のほうが得意だ。それに、それがあればノアを呼んでも大丈夫だと思う。それも含めて置いていってくれたんだろうからな」
 サティーナの腕に巻かれた紐を見て告げる。反論の間を与えず、不安材料を全て取り払い、サティーナの決心を口にさせる前に封じた。
「それじゃ、一緒にいてもいいの?」
「トルムまでになるがな」
 相変わらずの無表情でそういわれたのだが、サティーナはゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう」
「……ついでだ」
 束の間の沈黙を挟み、すぐに歩き出したアキードの背にサティーナは頷いた。
「十分よ」
 答えを聞いてすっきりしたのか、心も足もとても軽くなった気がした。気がつけば雨もぽつぽつと当たる程度で、もうすぐ晴れて太陽が顔を出しそうだった。
 気分よくアキードの隣に並んで歩いていたが、ふと隣の気配はあまり軽くないことに気がついた。
 わずかに眉を寄せている表情は、サティーナと違い曇っている。
「…どうかした? 傷が痛むの?」
「いいや。お前の事を聞きそびれたと思ったが、ノアの言った「最悪」の意味も聞かなかったな」
「何か問題があるの?」
「あいつがそう言うくらいだ。何かあるに決まってる」
 アキードはそれを知らずに旅をすることに抵抗があるようだ。
「今呼んでみたら? 大丈夫なんでしょう」
「まだ早い」
「早いの?」
 サティーナにはさっぱりわからない理由でまだだめらしい。
「せめて二、三日あいつには奴らを引きつけてもらわないとな」
 どうやらノアはあの襲撃者たちの目を引きつけるためにいなくなったようだ。そのくらいはサティーナにも理解できたが、ふと素朴な疑問が浮かぶ。
「それって契約魔の居場所はばれているってこと?」
 口にして、イノでも何かその様なことを言っていた気がした。
「あの、ねえ、それってなんだか」
 もやもやと不安が背後に広がっていく。そのせいか、アキードもなにやら暗い影を背負っているような気がしてならない。
 契約魔。サティーナの知る範囲で三人いる。
 アキードの契約魔。ジュメル卿の契約魔。フロストの契約魔だ。
 そして、おそらくもう一人。アキードの敵、ターシアの王女をさらった犯人も契約魔を持っている可能性が高い。
 彼らにはお互いの場所がわかるのだとしたら、アキードがノアを遠ざける理由がわかるのだが…。
「奴らって、まさか」
 なぜ複数形で言ったのか? アキードが気にしなければならない契約魔というと?
 サティーナは漠然とではあるがある可能性に気づき始めていた。
 アキードはちらりと横に視線を投げ淡々と事実を伝える。
「エントでお前に接触してきたやつは、確証はないがフロストの契約魔だ。あいつはイノにも居た。その時にノアが居ることを知っていただろうが、あの時は俺とサティーナは別問題だった」
「それが、エントで一緒に居ることがばれた?」
 ふうと吐いた息で肯定を表す。
 それで、ノアをうかつに呼ぶ訳にはいかなくなったのだ。
 ノアのいる場所。つまりそれはアキードがいる場所であり、サティーナがいる場所であるためだ。
「確証はない。あの時には偽装符もつけていたが、フロストの契約魔なら俺を見知っているだろうしな」
 ジュメル卿の配下で、元聖騎士という肩書きを持っているのだ。普通でも目立つだろう。
「アキード…やっぱり私…」
 完全なお荷物になってしまっている自分に、サティーナは今にもどこかへ行ってしましそうな顔をしている。
「ノアを呼ばないのはただの保険だ」
 言外に気にするなと言われているのがわかり、サティーナはさらに落ち込む。
「…ごめんなさい」
 唇を噛んで下を向き、歩みを止めてしまいそうなサティーナの手を取る。
「お前が謝ってもしょうがないだろう。それよりも前を見て歩け」
 エントを出たときも言われた言葉だ。
 肩越しの横顔と、強く引く大きな手をサティーナは見つめた。
 
 迷うな。父もよく口にした。
 感情の起伏の激しいサティーナに、父はよくこう言って諭した。
「サティーナ。お前の心は周りに伝染しやすい。怒るな、泣くなとは言わない。嬉しい、楽しいを殺せとは言わない。ただ、迷うな。しっかり物事を見定めて、そして真直ぐに向き合うんだ。そうしたら、きっと何も怖いことは無いはずだ」
 小さな子供に何を言っているのと母がよく怒っていたが、父はいつも笑ってこう締めくくるのだ。
「サティーナはハルミスの子だ」
 だから大丈夫なのだと。
 いつしかそれはサティーナの口癖になった。
 
「私はハルミスの子だもの」
 自分でも聞き取れないくらいの小さな声だった。当然アキードには何を言ったのか聞こえなかったのだろう。
「ん?」
 アキードが聞き返して振り返ったときには、もうすっかりもとのサティーナに戻っていた。
「ううん。なんでもないの。一緒にいてくれてありがとう」
 手を離して隣を歩くすっきりとした横顔は、無理をしているわけではなさそうだ。
「強いな。サティーナは」
 どこか苦笑交じりの声はサティーナには聞こえず。
「なに?」
「いや。晴れたな」
 見上げた空は完全に晴れ、遠く虹の橋がかかっていた。

四話 了