あまりの豪雨にアキードの姿は周りの景色に溶け込んで見えた。
そんなに茶店から離れた場所ではないが、街道を挟んで向こう側の草原にいるようだ。
サティーナが見守る中、アキードだと思われる影から光がもれた。
この豪雨の中で火を灯しても簡単に消えるだろうに、その光は消えることなく、アキードの足元に置かれた。
(火球のランプかしら?)
サティーナの記憶が確かなら、エントの宿屋でアキードがそんなものを持っていた覚えはない。
首をかしげてその火を見ていると、サティーナの耳に囁きが聞こえてきた。
(( ソナタノネガイニコタエヨウ ))
「え?」
ぼんやりと頭に直接聞こえるような微かな囁き声が聞こえたと同時に、アキードの足元にあった火が強さを増し、ふわりと浮かんだ。
アキードが何かしたわけではない。
その火は動かないアキードの周りを一度回ると空へと向かい消失した。
火の消失と、豪雨の音が弱まったのは同時だった。
「お? 少し降りが弱くなったな」
弱くなった雨音に気がつき商人の一人が口にする。
その声を聞いて、他の人たちも空を見上げて小さな歓声を上げた。
どんどん雨雲が去り、すぐに茶店を出る人たちもいる中、アキードがこちらに向かって歩いてきた。
サティーナのところまでくると帽子を脱ぎ、お茶を取ると一気に飲み干した。
「ぬるい」
そう感想をもらすと客が減って給仕に出ていた店の人に聞こえたらしい。
「暖かいのをお持ちしましょうか?」
「頼みます」
飲み終わったカップを手渡すと店の人も笑顔で答えた。
サティーナは決心を口にしようとアキードを見上げたのだが、出て行く前と少し様子が違う。なんだろうと一瞬考えたが、見るとアキードの唇が紫色になっていた。
「寒いの?」
近くの席が空いたのを見計らい、さっさと座ったアキードにサティーナは立ったまま尋ねた。
「ちょっと無理したな」
アキードは膝に肘をついて両手を握り締めている。その手が微かに震えているのを見つけ、サティーナはカップを空いている椅子に置いて、無意識にその両手を包み込んだ。
アキードの手は、まるで氷水に入れたかのようにひどく冷たくなっていた。
「あれが原因?」
「…何がだ?」
「光とか、声とか」
ひどく疲れた様子のアキードにそう言うと、口の端をあげた。
「やっぱり聞こえたか」
「あれって…」
「お待たせしました!」
できるだけ大きな声で割りこんだ店の人は、目を合わせないように、お茶だけ置いてさっさと行ってしまった。
どこか慌てた様子にサティーナはぷっと吹きだした。
今の状況からすると、落ち込む旦那を慰める妻に見えたのかもしれない。そう考えると思わず吹き出してしまった。
「やっぱり新婚に見えるのね。でも、どちらかと言えば頼りない兄に言い聞かせる妹だと思うけど」
その解釈も如何なものだと目だけでアキードに抗議され、サティーナはくすりと笑った。
「それで? 無理をしなければならない理由はなに?」
アキードが歩いてくるまでの間にどうやら分析を済ませてしまったようだ。
サティーナの手をそっと外してカップを両手で包み、一口飲んでから説明を始めた。
「どうやらこの近くで水に関した獣魔を怒らせたらしいな。あの雨はそのせいだ。神官が近くにいたし大丈夫だと思ったんだが、寸前で封じきれなかったみたいだな。サティーナも感じたあの衝撃はそのせいだ」
「つまり、アキードはその神官を助けたということ?」
「助けたというよりは、全部解決してしまいました」
「え?」
答えは目の前のアキードではなく、後ろから返ってきた。
その声に、アキードが目の前で固まり、サティーナもそのアキードから視線を外せなかった。ゆっくりと動くアキードの視線と一緒に、サティーナの視線も動く。
視線の先にいたのはずぶ濡れのマントを持った神官服の男性だった。
「アーサリー神官長!」
押し殺した声で叫ぶアキードに、にこにこと穏やかな笑みを作る男性は、「はい」と答えるとアキードのお茶を横取りしてビシっと指を突き出した。
「まったくあなたという人は。本当はもっと早くに気がついていたでしょう。どうしてすぐに鎮めないのです。おかげで私はこの様です。風邪でも引いたらどうします」
どこまでも穏やかにお説教をする神官に、アキードは言葉も出ないほど驚いているようだった。
身長はサティーナよりちょっと高いくらいで、どちらかといえば小柄だ。
薄茶色の髪に、薄い青色の目。柔らかい陽だまりの笑顔とやさしい声にサティーナは覚えがあった。しかし、その顔を見てもはっきりとしない。
ふと下げた視線の先にあった神官服の上、赤い石を持つ首飾りに、サティーナの目は釘付けになる。
その様子に気がついたのか、神官はサティーナの視界から遮るように、首飾りを撫でた。
「サナの父上の目のほうがもっとキレイですよ」
その言葉にサティーナはばっと顔を上げた。
「あ、"あの"神官様…」
「はい。久しぶりですね。大きくなりました…では失礼ですかね。立派な女性になりましたね、サティーナ。父上はお元気ですか?」
「…はい…」
呆然と、今入った情報を処理中のサティーナはただ神官を見つめる。
いつものことなのでアキードは気にする様子もなく、神官に尋ねた。
「知り合いだったんですか?」
「ええ。サナの父上とは長い付き合いで、世話をしたりされたりです。……トリウェル君、また無理をしましたね?」
アキードの様子にようやく気がついたのか、神官はお茶を頼んだ。
「少し」
短く肯定すると神官は首をかしげた。
「"彼"は?」
神官が誰を言っているのかすぐに察したアキードは少し困った顔をした。
「今はちょっと、事情がありまして。しばらくは呼ばないほうがいいんです」
話している間にお茶が運ばれ、神官が受け取るとアキードに差し出す。
「あなたは限りある者なのです。あまり無理はしないように」
「はい」
目の前で繰り広げられる光景に、サティーナは首をかしげた。
神官を見て驚いたアキード。素直に返事をするアキード。アキードは神殿育ち。どう見てもこの神官はサティーナの父と同じくらいの年齢…。
「もしかして、神官様はアキードの先生ですか?」
ようやく息を吹き返したサティーナの質問に、神官はどこか意地悪そうに、にっこり微笑んだ。
「ええ。そうですね。トリウェル君のお漏らしの回数も知ってます」
「アーサリー様」
いやにドスの聞いた声でアキードが名を呼ぶと、神官はほわわんと笑い、のほほんと答えた。
「ダメですよ、トリウェル君。女の子の前ではもっと好青年を演じねば。そんなに怖い顔では嫌われてしまいますよ。ね?」
「え? いえ、私に言われましても」
サティーナの反応に神官はくすくす笑い、目を細める。
「父上に良く似ましたね。……力の制御はできているようですし、私の"蓋"も壊れていません。でも、あまり強く声にしてはいけませんよ?」
「神官様は…」
サティーナが全部言う前に神官は深く頷いた。
アキードには何のやりとりかわからなかった。が、力の制御という言葉でふと、契約魔の言葉を思い出した。
「何を封じたんですか?」
アキードの質問に神官は「おや」という顔をした。
「気づいたのですか? あれは私とサナの父上との合作ですので、そう簡単に見破れないと思ったのですが」
「俺じゃなくて、ノアが」
神官は契約魔の名が出て納得したようだ。
「彼は強いですからね。近くにいればさすがに気づきましたか」
サティーナに視線を送りにっこり微笑み、そっと頭を撫でた。
「いつから一緒なのですか?」
「えっと、七日くらい前からです」
そう、出会ってからまだ七日しかたってない。
ここまで色々あり、進む道も追ってくる敵に急き立てられ、ありえないくらい速く進んでいる。本来ならまだイノにいるはずだ。
「ポンシェルノから七日ですか。彼の力を借りたのですか?」
さすがの神官にもその異常な速さに気がついたのだろう、アキードに尋ねる。
「途中一度」
だいぶ顔色の良くなったアキードは、襲撃の時に切られた腕を押さえた。
「なるほど。それで呼べなくなったのですか……ふむ。それでは私からいい物あげましょう」
そういうと神官服をごそごそと探り、アキードの前に握った手を差し出した。
アキードがその手の下に手を差し出すと、ぽとりとコインのようなものが落とされた。
「アーサリー様…これは…」
「この巡礼でトリウェル君に会うことはわかっていました。これはシーマ司教からの預かり物です。あなたに渡すようにと。それとサナにはこちらを」
戸惑うアキードににこやかに話すと、今度はサティーナに向いた。
サティーナに渡されたのは短い紐だ。本当にただの紐だ。
受け取ったサティーナはその紐をまじまじと見つめてからアキードを見た。そのアキードはその紐を見て固まった。それだけで何かあることは間違いない。
「あの。これって何ですか?」
サティーナが尋ねると神官はその紐を手首に結んでくれた。
「ただのお守りです。これでトリウェル君も少しは楽になるでしょう」
神官は固まるアキードに微笑むと頷いた。
「偶然は必然です。…さて、雨も止んできたようですね。お互い急ぐ道です。それではトリウェル君、たまには神殿に顔を出しなさい。サナ、あなたには強い加護がついていますが、十分気をつけて。いや〜今日は実に良いことをしました」
にこやかに笑顔を振りまき、自己満足に頷きながら、小雨になった街道を歩いていった。