サティーナが扉を開けてみると、そこにはやはりあの町医者が立っていた。
「ああ。申し訳ありません。化膿止めの薬を渡していなかったと思いまして、窺いました……えっと、あれ? どこだったかな」
 にこやかに頭を下げなにやらごそごそと荷物を探る。
 その様子にサティーナは一度アキードを振り返る。特になにも反応を示さないアキードを見て、サティーナは扉を少し開け医者に入るよう勧めた。
「あの、どうぞお入りください」
「すみません。えっと、でも…」
 なにやら遠慮する町医者にサティーナは笑顔を向ける。
「大丈夫ですよ。どうぞ」
「では、お邪魔します」
 はにかむように笑いながら部屋へ入ると、また荷物をごそごそと探り始めた。
 サティーナは扉を閉め、アキードのいるほうへと足を向けた。
「ハルミス・サティーナ殿だな?」
 突然かけられた思いもよらぬ言葉に、サティーナはぴたりと歩みを止めた。
 町医者をゆっくりと振り返る。
 そこにあるのは笑顔をたたえたままの町医者の姿がある。が、なにやら妙な気配だ。まるで人形のように発した声と表情がかみ合わない。
 笑顔を貼り付けたまま口だけが動く。
「手荒な事はしたくない。ピアスを渡してはくれまいか?」
「ピアス、ですか? あの、私はつけていないのですが…」
 とっさにサティーナは嘘をついた。
 しかし、町医者は鋭く切り返す。
「ええ、あなたのピアスではありません。あなたの母君のピアスです。おわかりでしょう? この世にあれだけの力を持つ至宝は一つしかない」
 ただのピアスを"至宝"という人間は限られている。
 彼は間違いなくフロストの配下であるようだ。
 隠しても無駄なのだと悟ったサティーナは町医者に向き合った。
「それは無理です。ジュメル卿以外の人間には手渡すなと言われています」
「そうですか。ではあなたの母君がどうなってもよろしいと?」
 臆することなくきっぱりと断ったサティーナに、表情を変えることなく淡々と話す内容は明らかな脅迫だった。
「母は…すでに死んでいます。お引取りを」
 強く言い返すサティーナの言葉に笑顔のまましばらく沈黙した。
 お互いに出かたを窺っていると、町医者が荷物に突っ込んだままの手を引き上げた。
「これでもそう強気でいられますか?」
 町医者が取り出したのは明るい栗色の糸の束のようだった。それ束ねているのは色とりどりの小さな石でできた飾りだ。
「…お引取りを」
 それを見るサティーナの表情は変わることはなく、彼の作戦が失敗に終わったことを示すようだった。
「気が変わるようでしたらこの先の青い看板の宿屋にいます。では」
 しかし町医者には何か確信するものがあるのか、糸の束を扉近くの作り付けの棚に置き、自分の居場所を教えて去っていった。
 気配が戸口から完全に消えると、一部始終を見ていたアキードがようやく声をかけた。
「大丈夫か?」
 その声に反応することなく、サティーナは置いていかれた糸の束を睨んでいた。いや、呆然と見入っていると言ったほうが正しい。
「サティーナ?」
 再びアキードが声をかけるとようやく大きく息をついて顔を覆った。
「間違いないのか?」
 何がとは言わない。サティーナの様子を見ればそれが何かは明らかだった。
 サティーナも何がとは聞かない。ただ顔を覆ったまま深く頷いた。
 町医者の置いていった糸の束。それは髪の毛の束であった。
 彼の台詞でそれが母親のものであることは疑いようもない。その母の髪の束がここにある。その意味は聞く必要も、言う必要もない。
 それは母ラジェンヌが敵の手に落ちたと告げるものだった。
 サティーナは置いていかれた髪の毛の束にそっと触れると唇を噛んだ。
(お母様…お母様。今どこにいるんですか? 無事なんですか?)
 髪を束ねている石の飾りは兄妹で母に贈った髪飾りだった。
 髪飾りを渡したときの母の笑顔が目に浮かんだ。これはこんなことに使われるものではない。怒りなのか何なのか分からない感情が心の底から沸きあがってくる。
 アキードは沈黙したサティーナにしばらく声をかけられなかった。
 服の裾を握り締めた拳が白くなるほど固く握られ、感情が爆発するのをそこで食い止めているように見えたからだ。
 それでもこのままにしておくわけにはいかずアキードは声をかける。
「とにかくピアスをジュメル卿に渡すんだ。それで全て終わる」
 その言葉にようやく髪の束から目を離し、隣に立つアキードを見た。
「…終わる? 本当に? それで全部元通りになるの!? お母様は? お父様に、兄様は!? ねえ!!」
 アキードの服を掴んで激しく揺すると同時に、今まで押さえていたものが瞳からこぼれ落ちる。
 これまでにも思考を麻痺させる事はあったが、決して取り乱したりはしなかったサティーナが完全に自身を見失っていた。
 そんな混乱するサティーナをアキードは強く抱き締めた。
 これまでに触れられたこと自体少なかったため、アキードのこの突然の行動はサティーナを驚かせた。そのおかげで少しだけ冷静さを取り戻す。
「落ち着けサティーナ。お前の母親は大丈夫だ」
「でも……!」
 アキードの言葉に顔を上げようとすると優しく押さえ込まれてしまった。
「いいから聞け。おそらくあいつらはラジェンヌだけを外に連れ出したはずだ。父親と兄は大丈夫だろう。母親にしてもそう手荒なことはできないはずだ。せいぜいできて髪を切るくらいだろう。よく考えてみろ、ポンシェルノの外でラジェンヌを殺して、ジュメル卿が黙っているわけがない」
 ポンシェルノは結界が張られていて、中の様子を窺うことは魔種にもできないが、ポンシェルノの外ならばジュメル卿の血に連なるラジェンヌの安否など簡単に知ることができる。
「ジュメル卿の契約魔はかなり強い。お前を見つけられるくらいの魔種だ、ラジェンヌを探すくらい簡単だ。ノアでもできる」
 そう説明されて納得したのか、落ち着きを取り戻した様子のサティーナを腕から開放すると微笑んではっきり断言した。
「大丈夫だ」
 アキードが微笑むと妙に落ち着き、大丈夫なんだと漠然と思ってしまう。
 あの無表情が嘘のように柔らかくふわりと微笑む。もしかしたらこれが本当の彼なのかもしれなかった。
「お前が今やるべきことは、一刻も早くジュメル卿にピアスを渡すことだ」
「うん」
 頷き涙を拭くと髪の束を見た。
 ポンシェルノを出るときの母の言葉が思い浮かぶ。
 死を口にした母はきっとこうなることを予想しているだろう。ちょっと間の抜けた母だが、ポンシェルノには父も兄もいる。
 イノで買ったあの小さなお守りをぎゅっと握り、目を閉じ大丈夫だと自分自身に言い聞かせる。
「私はハルミスの子だもの」
「ああ、そうだ。俺の護符を破るくらいなんだぞ?」
 アキードが強く肯定すると、ようやくサティーナに笑顔が戻った。
 
 
 青い看板の宿屋では男が一人、酒を片手にくつろいでいた。
 ラジェンヌの娘はまだ十七歳だ。あの脅しは確実に彼女の心を追い詰めたはずだ。青年がひとり一緒にいたがどうせ旅の道連れ、何の障害にもならないだろう。
 男はゆっくりと酒を口に運んでいたがふと気配を感じ振り返る。そこにいたのは町医者だった。
「お前か。どうだった娘の様子は?」
「あのラジェンヌの娘だけはある。伝えたが出方はわからない」
「そうか」
 気分良く酒を飲んでいた男は厳しい眼差しで酒の器を見る。
 それにしてもこの部屋、宿屋の外観からは想像もできないほど豪華なつくりだ。町医者の入ってきた扉の向こうには薄汚れた廊下が見えるが、それもこの部屋とはつりあわない。
 それもそのはず、この部屋はあのフロストの部屋だった。
 町医者が突然前触れもなく床に倒れると、同じ場所にあの濃い紫色の髪の青年が立っている。
 青年が倒れた町医者を見つめると彼はぱっちり目を覚まし、呆けた調子で廊下へと向かった。
 ばたんと扉が閉まると同時に、彼ははっと我に返り自分の居場所がわからずにきょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ? ここはどこだ? 僕はいったい…?」
 しばらくうんうん唸っていたが、やがて諦めたように歩き出す。
「はぁ。疲れてるのかなぁ」
 ひどくだるい体を引きずるように廊下を後にした。
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
 二人は朝が訪れる前に起きだすとエント城砦を後にしていた。
 エント城砦は入るのは難しいが、出るのは意外に簡単だ。警備のためにいる自警も出て行く人間には声をかけたりしないようだ。
 あの脅迫者のことが気になるのか、サティーナは何度も宿屋あたりを振り返りながら門をくぐった。
 アキードがそんなサティーナの肩に手を置き大丈夫だと安心させる。
「大丈夫だ。とりあえず朝まではあいつらはあそこで待つだろう。その間にできるだけ距離をとったほうがいい」
 その意見にはサティーナも賛成した。
 夜明け前でもありランプをつけて歩いていたが、暗いというよりは薄ぼんやりと光がまとわりつくような感じがした。
 その光景に少し怯えたように、サティーナはできるだけアキードの側を歩いていた。
 エントを越えると森がなくなり広大な草原が広がる。この地方は雨が少なく作物が育たないため畑などの開拓をしていない。
 雨は少ないが草原特有の霧が発生する。
 サティーナたちの周りにできた微妙な光は、その霧に光が反射してできたもので、まるで灰色の闇の中を歩いているようだった。
 昨夜の出来事を引きずっているのか、サティーナはどこか元気が無く、下を向きただ歩を進めている。
 アキードはそんなサティーナにかける言葉を捜したが、結局何も思いつかなかった。フードを被っているため表情を窺うこともできない。
 鬱陶しいと感じているわけではないが、なぜか気になってしょうがない。夕べは結局眠れていたのだろうか? 起きたときには泣いた跡などはなかったが、睡眠をきちんととったとは言いがたい酷い顔をしていた。
 どんな危機的状況にも明るさを失わなかったサティーナが、ひとたび沈黙するとこれほど静かだとは思いもしなかった。
「家族はいいものだな」
「え?」
 思わず洩らした一言にサティーナが反応する。
 アキードはまっすぐに前を向きながら話をする。
「俺は捨てられた子供だからな。血の繋がった家族はいない。だから俺が、家族が心配で心を塞ぐことはないが、逆に俺を心配して心を塞ぐ家族もいないってことだ」
 どうしてこんな話をしているのだろう? ふと疑問に思ったが、すぐにその答えが見つかる。
「サティーナが心配しているのと同じように、家族もお前を心配してるだろう。落ち込んだまま前に進むよりは、今何が最善かを考えて前を向いたほうが彼らのためにもなるんじゃないのか?」
 慰めにしてはあまり気が利いているとは言いがたい。
 アキードもそれを自覚しているのか、サティーナに視線を合わせることなく前を向いている。
 今までアキードからこういった話をすることがなかった分、サティーナはぽかんとした。慰められているのかしらと首をかしげそれから微笑んだ。
「うん。ありがとう」
 お礼の言葉にアキードがちらりとサティーナに視線を向ける。
「迷うなよ」
 この灰色の闇に。心の闇に。自分の進むべき道に。
「…うん」
 サティーナは頷きアキードの袖をちょこんと摘まんで歩いた。

三話 了