ノアはとても重く、実に嫌そうに口を開いた。
「アイツに聞いてきたんだが……」
"アイツ"とはもちろんジュメル卿の契約魔だろう。
「フロストの情報源は、どうやらトルムが関係しているらしい」
「トルム?」
意外な単語にアキードが反応する。
「ああ。ここ数ヶ月の間、頻繁にトルムからフロストの元へ伝書が届くらしい。一ヶ月ほど前フロストの配下がターシアへ向けて発ったらしいが、行き先はポンシェルノだったそうだ」
ジュメル卿は息子のその行動を把握し、自分の配下に後を追わせて得た情報だという。
「その使者がラジェンヌに接触した…」
アキードの推測をノアが頷き肯定した。
「ちょっと待て。という事は、トルムにラジェンヌの居場所を知っている人間がいるということか?」
「そういうことになるな」
ノアはそれに関しては何も知らないようだ。アキードは腕を組み思考を巡らす。
それを聞いたサティーナはふと、ある疑問に気がついた。
「アキードはお母様の居場所を知っていたの?」
イノの宿屋でサティーナの素性を知っていたことにさしたる疑問は持たなかったが、ジュメル卿の配下とはいえ、ただの雇われ剣士であるアキードが、なぜ母の事を知っているのかは疑問である。
アキードは首を振って否定した。
「いいや。ただ、だいぶ前に手紙を頼まれてハルミスを尋ねたことがある。その時にお前の母親を見はしたが、あの"ハルミス"の伴侶でも普通の人だと思っただけだ」
後日、ジュメル卿の屋敷にて、噂の失踪したという娘の肖像画を目にした。
「その絵があまりにもハルミスの女将に似ていたんでジュメル卿に言ったんだ」
ハルミスの女将さんに似ていると笑って評したところ、ジュメル卿本人が「ああ。そうだ」と答えたのだ。
「その時…いや、今まで冗談だと思っていたんだが…サティーナがハルミスの娘で、フロストが追っているとなれば、あの時の話は嫌でも本当だと思うだろう」
ということは確信を持ったのはつい最近ということだ。
「でも、それじゃあ、アキードと同じように知った人もいるかもしれないのね」
サティーナの考えはありえなくはないことである。ポンシェルノにやってくる旅人は当然、ヴィーテルの人間もいる。その中の一人がサティーナの母、ラジェンヌを見て、ジュメル卿の娘に似ていると思った人間がいないとは言い切れない。
「多分その筋が濃厚だろうと、アイツも言っていた」
「その人が誰かはわからないの?」
それまで聞かれた質問には淡々と答えていたノアが、少しだけ沈黙した。
「ノア」
主人であるアキードの先を促す声にノアはふうとため息をついた。
「フロストにラジェンヌの居場所を教えたやつも、すでに把握していたようだ」
真直ぐアキードを見上げて真剣にノアが伝える。
「トルム国総領、カーチェリア・ハイデン」
告げられた言葉に絶句したのはアキードだけではなかった。
トルム国はつい最近、国として認められたばかりの新しい国である。国を治めているのは国民が選んだ人物で、「総領」と呼ばれる。つまり、他二国の国王と同じ地位にいる人間だ。
「それも、どうやらかなり協力しているようだ。五日ほど前、フロストのところから使者がたった。行き先はトルム。その後、トルムにいるはずのないターシアの官僚が数名トルムから出て行ったそうだ」
暗い雑木林にランプの明かりだけが小さく揺らめいている。二人はその小さな明かりを見つめて完全に沈黙した。
アキードの睨んだ通り、あの灰色のマントの男たちは正規の官僚ではなかったということだ。
「それと、もう一つある」
しばし訪れた重い沈黙を破ったのはやはりノアだった。
今度はサティーナに向かい真剣に告げる。
「ジュメル卿に娘殺しの容疑がかけられている」
「え?」
「娘殺し?」
その単語にアキードは眉を寄せた。
サティーナの母、ジュメル卿の娘ラジェンヌが失踪しているのは公然の事実なはずだ。
しかし、ノアがヴィーテルへ行き、つかんだ情報によるとある噂が問題になっているらしい。
ジュメル卿はあの至宝を娘に持ち逃げされたと言ってはいたが、実はその娘を殺し、世間の目から至宝を隠し、この国を乗っ取るつもりではないか? という根も葉もない噂だ。
もちろん卿は潔白を主張したが、ラジェンヌの突然の失踪と安否が不明であること。次の卿の指名がないことも噂に拍車をかけた。
最初は放っておいても大丈夫だろうと思えるような小さな噂だったのだが、しだいに大きくなり放っておけない状態になった。
そういうわけで卿は真相が明らかになるまで蟄居を言い渡されたという。
「アイツの話では今のところ確証はないから大丈夫らしい。噂を広げたのも恐らくフロストだろうと言っていた」
ノアの言葉は淡々と事実のみを伝える。
しかし、二人とも何かを考えているらしく、ノアの言葉が聞こえているのか疑いたくなるほど何の反応も示さない。
一応の報告を終え、ノアも沈黙する。
再び雑木林には整然とした静寂が居座り、時々風に揺られて木々の葉がさやさやと音を立てる。
「雨でもきそうだな」
ノアの呟きにサティーナは空を見上げた。
ランプの明かりに木の葉が見て取れる。その背景は真っ黒に塗りつぶされていた。
「お母様はそれを知って、ピアスをジュメル卿へ渡すことを決意したのね。でも、いつそれを知ったのかしら? フロストさんの使者から、聞いた…」
そこまで考えサティーナは口をつぐんだ。
考えてはいけないことを考えているような気がした。
嫌な予感がどんどん迫ってくる。
旅に出る前、母はなんと言った? 確かこう言わなかったか?
『母は死んだと思いなさい』
その意味がもし、本当なのだとしたら?
「お母様……」
衝動的にサティーナはポンシェルノへ帰ろうとふらふらと歩き出していた。
「サティーナ」
呼ばれたほうへ目を向けると、そこにはアキードがいる。
「アキード。どうしよう。もしかしたらお母様はもう…」
「それはない。お前の母親はポンシェルノにいるんだろう? ハルミスの妻をそう簡単にどうこうできるものじゃない。ましてや、あいつらはターシアの官僚でもなんでもない」
ランプに背を向けた形でいたサティーナに歩み寄り、アキードはそっと肩に手を置いた。
「お前の父親は"灼石"だろう?」
世界最高の結界を作れる人間。
「大丈夫だ」
幼い子に言い聞かせるように、ふわりとやさしく微笑むアキードにサティーナは小さく頷いた。
「それはそうと、ノア。お前の言う「最悪」っていうのはそれか?」
「いや…」
ノアが説明しようと口を開きかけたとき、紙を指で弾いたような音が静かな雑木林に響いた。
「なんの音?」
「サティーナ!!」
叫ぶ声と同時に突然腕を引っ張られた。
「え?!」
「くそっ!」
何が起きたのかわからないサティーナの目に、ランプの火に鈍く光る刃が映る。それも一つではない。ランプのわずかな明かりの中に、抜き身の剣を持った何者かが数人いた。いや、突如として現れたのだ。
息を飲みアキードの腕にしがみつくと、手に濡れた感触が伝わる。
見ると手が真っ赤に染まっていた。
「アキード…」
アキードの肩近くの服が裂け、そこから血が滲んでいる。
「まったく。踏んだり蹴ったりだ」
アキードは自嘲気味にぼやくと胸に手を当てた。
「逃げるぞ」
サティーナにだけ伝わるくらいの小さな声で告げると、一瞬にして辺りは真っ暗闇に包まれた。アキードがランプを蹴倒し、火を消したためだ。
「ノア」
「走れ」
あった光源がなくなったため、目が眩み何も見えない雑木林の中。アキードの声に応じたのだろう契約魔の声がサティーナにも届く。
その声を聞くが早いか、サティーナはアキードに手を引かれ、どこに続くのかわからない真の闇の中を走った。