次の朝、二人は夜が明けきる前にイノを出た。
大きな二国の中間地点にある都市だけに、朝早くの旅立ちはそう珍しいものではなく、二人を怪しむ者はいなかった。
その証拠に街道を二人で歩いていると、馬に荷車を引かせた行商人に呼び止められた。
「お二人さん。次の町までなら乗せてやるぞ」
身なりも恰幅もいい商人にそう声を掛けられ、アキードは一度サティーナを振り返り答えた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですので……」
アキードが丁重に断るのを商人は困ったように首を振って否定した。
「いいや、いいや。兄さんは大丈夫だろうが、お嬢さんはつらいだろう。さあ、さあ。遠慮はしないで乗っていきな。初めては誰だってつらいもんだ」
「?」
「?」
商人はしきりと頷き、困ったように同情するように笑っている。
サティーナとアキードはお互い顔を見合わせ首をかしげた。この商人の大いなる勘違いを知るのはそう遅くはなかったが、この時は確かにサティーナは寝不足気味だとアキードも察していたのか、商人の申出を強く断ることもしなかった。
「では、乗せていただきます」
「ありがとうございます」
「なんの、なんの」
そうして二人はありがたいことに荷車に乗ることができた。
昨夜、結局サティーナはアキードの置いていった剣を抱いて、そのままベッドに横になっただけで、十分な睡眠をとったとは言いがたかった。
アキードは宣言通り、夜が明ける前にサティーナの部屋を訪れた。
「悪い。起こしたか?」
一応そっと入ってきたのだが、扉が開いた瞬間サティーナが起き上がったのを見て、アキードはすまなそうに謝った。
「大丈夫。少しは寝たから。アキードは寝たの?」
サティーナは心配そうに尋ねた。
他の場所に宿をとっているなら心配はないが、再会したアキードが荷物を持ったままであったことと、この宿を出て行った時間を考えると、おそらく自分の宿はとらなかったのではと考えられた。気がついてみればアキードの荷物は机の近くに置いてあった。
サティーナの心配はどうやら的中していたのか、アキードはマントを脱ぎながら、机の側にあった椅子に腰掛けた。
「少し寝かせてもらえるか?」
椅子に深く腰をかけ、マントを布団代わりにしてその場で寝る体勢を作った。
「寝るならベッドが……」
あると言いかけた時には、アキードはすでに寝息を立て始めていた。
サティーナは呆れたように口をあけてから、くすりと笑った。
小さな椅子に長身を縮め、足を組んで寝ている姿はいかにも窮屈そうだ。
ベッドに戻ると剣を持ってアキードが座っている椅子の背に立てかけた。
「ありがとう」
そっと呟くようにお礼を言う。
自分のことを知らなければアキードは普通に寝ていられたはずなのだ。あるいはアキードがジュメル卿の配下ではなく、サティーナがジュメル卿の孫でなければ。
考え出せば切りがないが、余計な消耗をさせている自覚は十分にあった。
再びベッドへと戻り、ぱたりと横になるとアキードの姿も横になる。
火球のランプに布を掛けているため部屋はさらに薄暗い。しかし、月夜の月光よりは明るく十分にその姿を確認することができた。
(寝顔は確かに十九歳かも…)
起きている時は限りなく年齢不詳なのだが、こうして寝顔を見ると、確かに少年っぽさがまだどこかに残っているような青年の姿に見える。
(十九歳の雇われ剣士。か…ジュメル卿とどういう関係なのかしら?)
その若さで雇われるほどの剣士というと、かなりの腕の持ち主か、ただのお飾りくらいだろう。後者であれば貴族の息子がなることが多いが、アキードは神殿育ちだ。貴族なわけがない。
前者である確率のほうが高いが、アキードはどう見ても屈強の剣士には見えない。
(これって偏見ってやつかしら?)
サティーナの知っている剣士とは、ターシアの兵士である。彼らはみな筋骨逞しく、よく日に焼けた顔をしている。それがサティーナの持つ剣士像だ。
それに比べるとアキードは少し…身長のせいもあるのか、痩せている。マントを脱いだ姿を見る限り、青年剣士。経験と鍛錬がまだ足りない印象だ。
(あ。でも、契約魔がいるんだから、少し特殊なのよね)
ふと、今はいない黒い狼を思い出し、サティーナは妙に納得した。
魔種とは人間なら誰とでも契約する生き物ではない。
契約の基準は不明だが、一般的に力の強い人間と契約すると言われている。とりわけ、ノアのように知能の高い魔種は契約する人間を選ぶものらしい。
言ってしまえば人間が、彼らに選ばれているといっても過言ではないだろう。
(アキードは強いって言ってたなぁ。そうなるとアキードにも力があるのかしら?)
その可能性が限りなく高いことは、あの森での彼を見ていて何となく感じていた。あまりにも慣れているし、かなり魔種の知識を持っていそうだ。
(そんな人がどうしてここにいるのかしら?)
横になり、規則正しく聞こえる寝息に、サティーナにも眠気が伝染したのか、ゆっくりと瞼を閉じた。
どのくらいそうしてうとうとしていたのかはわからないが、まだ窓の外が暗い中、なにやら少し騒がしい気配がしていた。
「………!…」
「…ぅん?」
その気配でサティーナは目を覚ました。
目を開けると寝たときと同じ体勢のまま、アキードが寝ている姿が目に映る。
サティーナは少し体勢を変えてもう一度寝ようとしていたが、騒がしい気配はどうやらこの宿の近くで起きているらしい。
なにやら話している声がサティーナのいる部屋まで聞こえてきていた。
声はどうやら男と女。だが、どうも痴話喧嘩ではなさそうだ。
サティーナはベッドの上でしばらくその聞き取れない会話を聞いていたが、とうとう耐え切れなくなり扉をそっと開けてみた。
「…ですから、こんな時間に困ります!」
「急を要すのだ。そこをどけ!」
「ですから。当宿にはサティーナという女性は泊まっていません!」
お互い声を潜めてはいるが怒鳴り声に近かった。
その声が発した言葉に、サティーナは体温が急激に下がったのを自覚した。
「来たな」
「!!」
突然降ってきた声に危うく悲鳴を上げそうになり、手で口を押さえ振り返ると、そこに先ほどまで寝ていたアキードが立っていた。
「あの受け付がどこまでがんばれるかだな」
「…逃げる?」
「それはしないほうがいい。おそらく外に見張りがいるだろうからな。今出て行けば逆に自分がそうだと宣言しているようなものだ」
アキードはそっと話し声の聞こえる受け付へと足を運んだ。そこにはすでに数人の泊り客が様子を窺っていた。
やはり、灰色のマントを着用した男が二人、受付の女性と言い争っている。
「わかっていますか? 黒髪の女性などここイノではどこにでもいます。というより、黒髪の割合が多いのですよ?」
「そうだ。イノ全部の黒髪を調べるつもりなのか?」
一人で戦っていた女性にやっと味方をする人間が現れた。女性はほっとした様子で入り口を埋めるほどの男たちを見た。灰色のマントの男たちも彼らを見て盛大な舌打ちを漏らした。
「貴様らには関係のないことだ」
「いいや。ここは俺たちの町だ。イノで起きたことは全て俺たちに関係する。そこでだ、この町をよく知っている俺たちが協力してやるから、その黒髪の女の様子を詳しく話してみないか?」
灰色のマントの男たちは三人。対して、イノの町を守る自警たちは数倍の人数いる。当然外にいるだろう灰色のマントの仲間を入れても、彼らに自警たちを相手にするには分が悪いと一目でわかる。
しかも、自警の申し出は彼らにとっても余計な手間を省く絶好の機会でもあるはずだ。
しかし灰色のマントの男たちは顔を見合わせると、小さな宿から出て行った。その立ち去る男たちを自警の何人かが追いかけた。
「ありがとうございます。私一人でどうしようかと思ってました」
「いや。遅れて悪かったな。でも、もう大丈夫だ」
受け付の女性は心底安堵した様子で、胸に手を当てその場に座り込んだ。どうやらそうとう怖かったようだ。自警の男はその女性が立ち上がるのを手伝い、様子を見ていた泊り客に視線を移して一礼した。
「申し訳なかった。もう朝になりますがそれまでゆっくりしてください。対応が遅れたことには俺たちから謝ります」
そう言うと入り口を埋める自警たちが一斉に例をした。
「あんたたちのせいじゃないさ。落ち着いて寝れるならそれでいい」
客の一人の声が合図のように、その場にいた他の客たちも部屋へと戻った。
アキードも部屋へと戻ると、サティーナが心配そうに扉を開けて待っていた。
「行った。もう少し寝ていても大丈夫だろう」
「そう。よかった」
サティーナも安堵の息を吐いてベッドにどさりと腰を下ろした。
それからまた少し横になると空が白んできたのはすぐだった。
そんな緊張の一夜を過ごしたせいか、サティーナは森からの疲れを引きずり、乗せてもらった荷車の上で強烈な眠気に襲われていた。
馬車とは違い御者席しか設けてないため、サティーナは馬を操る商人とアキードに挟まれて座っている。荷車の心地よい揺れについうとうとして、アキードの肩に頭を預けてしまっていた。
サティーナの様子を見て商人はにっこり笑うと、視線はまっすぐ前に向け、アキードに話しかける。
「ほらな。やっぱり疲れてるだろう」
「ああ。夕べはあまり寝てないようだから…」
「ふっふっふ。そうだろうともさ。まあ、これだけの美人だ、わからんでもないが、可愛がるのも加減してやらないと壊れてしまうぞ?」
「………」
意味深に笑う商人に対し、アキードは無表情で前を見る。
アキードのあまりにも無反応な対応に、商人は首をかしげ視線を送る。
「なんだ? 新婚じゃないのか?」
「いや……」
ここで違うといえば荷車を降ろされるだろうかと思いつつ、アキードは明確な回答を避け、口ごもりとりあえずサティーナを引き寄せた。
「…ん? なに?」
体を引き寄せられサティーナは寝ぼけ半分で尋ねたが、アキードが瞼を下ろすように手を当てた。
「寝ておけ」
「ありがと………」
二人の様子を見て、商人は満足したように笑い、次の町まで二人をそっとしておいたのだった。