「そろそろ正気に戻れ」
 笑いながらのノアの言葉で、サティーナはようやく我に返った。
「あの…」
 膝の上にある剣をどう扱っていいのか考えあぐねるサティーナに、アキードも笑っている。
「少しは安心したか?」
「安心というか、なんだか複雑だわ」
 からかわれているというのが正直な気持ちだ。
 アキードのこの行動は剣士が主に行う信頼の証明だ。それと同時に『私は貴方を傷つけない』という意味でもある。
「今すぐ信用しろとは言わないが、俺はお前の味方だ」
 ふわりと柔らかく微笑むアキードに、ほっと安堵しつつも剣の柄に手を置いた。
「母親のことについてだな……俺もその前に一つだけ確認しておきたい。お前の母親の名前はラジェンヌだな?」
「ええ。そうよ。やっぱり知っているのね」
 母の名を知っているアキードに特に驚くこともなかったサティーナだったが、意外にも反応を示したのはノアだった。
「…ラジェンヌ?」
「どうかした?」
「オマエの母親ってことはハルミスだろう?」
「ええ。そうだけど? 母の名前はハルミス・ラジェンヌよ」
 何を当たり前のことを聞くのだろうと、サティーナは首をかしげたが、ノアは呆然と口を開いたままサティーナを凝視する。
「え? え? 何?」
 ノアの反応にサティーナは困惑し、アキードは笑いを噛み殺した。
 全てはアキードが知っていると思ったサティーナは、アキードに尋ねる視線を送った。それを受けてアキードが首をかしげた。
「それはそうと、サティーナは母親についてどのくらい知っているんだ?」
「お母様? えっと、出身はヴィーテル…だって、ことくらいかしら」
 口にして初めて、サティーナは愕然とした。母について知っている事といったらそのくらいで、他には何も知らないのだ。今までそんなことを考える必要がなかっただけということもあるが、過去については全くといっていいほど知らない。
「なるほどな。かなり徹底してるみたいだな。俺が知っているのは、お前の母親の結婚する前の名前、つまり旧姓だ…それも知らないんだな?」
 アキードの再確認にサティーナはただ頷く。
「お前の母親の旧姓は、ジュメルだ。ジュメル・ラジェンヌ」
「ジュメル……」
 サティーナの呟きにアキードはゆっくりと頷いて、噛み砕くように告げる。
「現在のジュメル卿の愛娘で、二十六年前にあるモノを持って失踪した」
「失踪…?」
 呆然と呟くサティーナを見て、アキードはここで一度間を置いた。
 サティーナは突発的事項に弱い。極めつけに情報を処理するまでに時間が掛かる。もっとも、飲み込んだ情報で得るものは人よりも多いのだが。
 それはさておき、アキードが腕を組んで、サティーナの反応を待つ間、サティーナは今得た情報を飲み込むため、必死に思考を巡らせていた。
(失踪? 失踪って行方不明ってことよね。ジュメル卿の愛娘って事は、お母様は自分の父親に会えって言ったということ? でも、それならそうと、どうして言わないのかしら? 言えない理由? 失踪……"あるモノ"?)
 サティーナはごくりと唾を飲み込んだ。そしてそっと胸に手を当てる。母から手渡されたあの小さな袋。それがここにある。
 そっと、アキードを見ると、静かな視線をこちらに向けていた。
「あの…それで?」
「ジュメル卿の契約魔でも探せなかったこともあって、この二十六年の間にラジェンヌはすでに死んだものとされている。墓まであるしな」
「お墓…それで」
 母が自分を行かせた理由はそれかと、サティーナは納得した。
 死んだとされている母が突然ジュメル卿の前に現れれば、世間も騒がすことになるのは容易に想像がつく。
「だが、それを信じている人間ばかりではないんだ。この二十六年間、ラジェンヌを探している人間がいる。ジュメル卿の息子、ラジェンヌの兄でフロストという男だ。正確にはラジェンヌが持ち出した、その"ある物"を探しているんだが……」
 アキードはここで一度言葉を切り、床に座るノアを見た。
「本当に、全く、気がつかなかったのか?」
 アキードの問いにノアがようやくサティーナから視線を外した。
「気がつくわけがないだろう。ここまで何の力も感じない赤目なんか見たことないぞ。…いや。そうだな、いってみればジュメルの血とハルミスの血が、上手い具合に相殺してるのかもしれないな」
 そう言うとまたサティーナを見つめる。
「何か文句でも?」
 サティーナは半眼でノアを見る。
 ハルミス。その名は一般的には広く宿屋の名前であるが、ある特定の立場にいる人間には特別な名である。赤目"灼石"の始祖はハルミスであるためだ。
 ゆえに、ハルミス直系のサティーナに力がないのは、力に敏感な魔種には信じられないを通り越して、ありえないことなのだ。
 と、話がそれている。アキードは一つ咳払いをしてから話を元に戻す。
「そのある物はジュメル卿である証だ。ジュメルの血に反応し、力を発揮するらしいんだが…サティーナが持っていても何の力も発してはいないようだな」
「ああ、完全に沈黙している」
 アキードの言葉にノアがきっぱりと言い切る。
「あの。言っている意味がよくわからないんですけど」
 少し眉を寄せるサティーナに、アキードは口の端を上げた。
「母親から渡されたものがそこにあるんだろう? それは赤い石のピアスじゃなかったか?」
 先ほどサティーナが手をやった胸に視線を投げ笑う。サティーナは渋い顔をして、胸に手を当てた。アキードにはすでにばれている。
 少し躊躇ったが、襟首から手を突っ込んで、あの小袋を取り出した。
 手の平にすっぽりと隠せるほどの小さな袋だ。中には確かに小さく硬いものが入っている。
 袋を開け逆さに振ると、アキードの言うとおり、赤い石でできたピアスが二つ出てきた。特に高価そうでもなく、飾り物としては少し質素でもある。
「これをジュメル卿へ渡すの?」
 思わずそう言ってしまうほど、本当になんの変哲もないピアスなのだ。
「それは世界を揺るがすほどの力を秘めた至宝だ」
 そう説明をするノアを見やる。ノアはどこか緊張している様子だった。
「至宝?」
「ああ。ただ使える人間が決まっているが」
「それが、ジュメル卿っていうことね」
 実感は全くないサティーナはただ、その暗く赤い石を見つめる。どこか血の塊を想像させる色だ。
「この至宝をお母様の兄様、えっと…フロストという人が探しているのね? でも、ジュメル卿の証なんでしょう。探すのは当然なんじゃないの?」
 フロストはジュメル卿の息子。ラジェンヌの兄。次期ジュメル卿を継ぐフロストがその証を手に入れようとするのは自然な話ではないのかと、サティーナはそう思ったのだが、話はかなりややこしいようだ。
「世界を揺るがす力を持つ人間はそれなりに選ばれる」
「息子だからと言ってジュメル卿にはなれない」
 ノアが遠まわしに言った言葉を、アキードが簡潔に告げる。
「ジュメル卿になれないのにどうしてこれを探しているの?」
「フロストはジュメル卿になりたいわけじゃない」
 世界を揺るがすほどの力がある至宝。それを使えるのがジュメルの血筋。サティーナにも続く血脈。しかし、サティーナは使えない。
 どこか心が寂しくなる。
 サティーナは赤目としての力も持っていない。
 小さな至宝は無力な自分を証明するものでもあるかのようだ。
 見るに堪えず、その小さな石を元の袋へと戻した。
 その袋を見て母親の顔も思い出し、ふと首をかしげた。
「でも、お母様はどうして突然、これをジュメル卿に渡そうとしたのかしら?」
 あの日の朝までそんな気配は全くなかった。
「んん? もしかして、私を探している人って…」
 ジュメル卿の至宝。それを持ち出し失踪した母。それを探す兄フロスト。その兄の考えを母が知ったのだとしたら…。
 簡単な図式がサティーナの頭の中に出来上がり、思わず袋をぎゅっと握り締めた。
「ああ、フロストだ。どうしてか、それをサティーナが持っていると知っているらしい。それをジュメル卿の契約魔も知って、サティーナの前に出てきたんだな」
「アイツがいたのか?」
 アキードの話に反応したノアが実に嫌そうに聞いた。
 その言い方があまりに嫌そうだったので、アキードが思わず吹き出した。
 それを受けてノアは狼の口で器用に舌打ちした。
「お前は本当にあいつが苦手なんだな」
「うるさい」
 目の前で繰り広げられる掛け合いに、サティーナは目をぱちくりさせた。
「あいつ?」
「店であった契約魔だ」
 一瞬にしてあの色違いの瞳が思い出され、サティーナはベッドの上に突っ伏した。無意識に剣が落ちないように片手で抑えている。
「サナって呼んだのよ…私のこと…そうなのよ…きっとジュメル卿は知ってたんだわ…じゃなきゃおかしいもの…」
 搾り出すようにぶつぶつと呟くサティーナの声は今にも死にそうだ。
「大丈夫か?」
「…今のところ」
 ノアが心配そうに尋ねるとサティーナは力なく返事をした。
 のろのろと起き上がりアキードを見上げ、これも力なく尋ねる。
「危険っていうのは、もしかしたらそのフロストさんが関係しているのよね?」
「ああ」
「それを詳しく知っているアキードは何者? 本当に味方?」
 疑心暗鬼とまではいかないでも、ここまで知っている人間がただの雇われ剣士なわけがない。
「貴族に雇われているといっただろう」
「ええ」
「ジュメル卿だ」
「はい?」
「ジュメル卿に雇われている」
「………」
 サティーナは、もう何も言うことはない。そんな表情で沈黙した。
 非難のような視線を受け、アキードは居心地悪そうに窓の外を見る。
「ま、とにかく。フロストの契約魔はサティーナに気がついてない。配下もいるようだがそっちもまだ情報を得ていないようだったしな…宿の名簿にはなんて書いた?」
「ターシア国のベルミスタ・マリー…叔母の名よ。だって、まさか本当の名前を書くわけにいかないじゃない……」
 複雑そうにいうサティーナの心境を理解してか、アキードもただ頷いた。
「それなら向こうが強行姿勢をとらなければ安心だな。ノア、ここからヴィーテルへ行って帰ってくるまでどのくらいかかる?」
「一日…知っている理由か?」
「ああ、頼む。一日後だと次の町に移動してる」
「わかった」
 二人はそれだけの会話をすると行動に移った。
 ノアはその場から掻き消え、アキードもマントを取ると身につけた。
「どこかへ行くの?」
 サティーナは無意識に立ち上がり、アキードの剣を差し出した。
「あいつらの様子を見に行ってくる。それは持ってろ。ポンシェルノの人間なら扱いくらいは知ってるだろう?」
 言いながら部屋の扉に手を掛けている。
「ええ、それは…」
「多分やつらには見つけられないだろうから大丈夫だ。夜明け前にまた来る」
 そう言うと廊下へと出て行った。
 遠くなるアキードの後ろ姿を見送り、扉を閉めるとまたベッドへと戻って座ると、サティーナは膝の上に置いた剣を一撫でした。
「今日はちゃんと寝たかったのに」
 あんな話をされたのではおちおち寝てもいられない。野宿から解放されたというのに、結局ベッドは使いそうにないことに嘆息したのだった。

二話 了