あの男性の言っていたように、この食堂はとても人気のある店のようだ。
 サティーナの前にデザートのココニアが運ばれてくる頃には、店の前に人が並んで待っているくらいだ。
「すごいわ〜。食堂に並ぶなんてポンシェルノにはない光景だわ」
 窓から見える人々を見つめ、サティーナは乳白色のそれをスプーンですくう。スプーンが離れた瞬間、ぷるりと揺れる。その様子に感動しつつ、一口頬張るとにーっこりと幸せそうに微笑む。
 その姿があまりにも幸せそうで、いつもの無表情で食事をしていたアキードも思わず吹き出した。
「なに?」
「…別に」
 笑われたことに睨むとアキードは笑いを噛み殺した。
 その姿に面白くない気分でいたサティーナだったが、少しだけ不思議に感じていた。
 何にといえば、アキードの態度にだ。
 あの男性――誰かの契約魔だということだが――に会ってから態度がすこぶる緩和しているように思えるのだ。
 一口、ココニアを口に入れ、頬が緩む甘さを堪能しつつ考える。
 あの契約魔の男性と、アキードは知り合い。はっきり肯定されたわけではないが、これは間違いないと思う。
 男性はサティーナをハルミスと知っていたが、アキードは知らなかった様子。だが、この店に入ってきたときには知っているようだった。
「どうした?」
「へ?」
 スプーンを口に突っ込んだまま、考え事をしているサティーナに声を掛けたアキードは、食事を終えてお茶を飲んでいた。
 確かめるべきだろうか。少しだけ躊躇ったが、止まっていては始まらない。
「自己紹介くらいはしたほうがいいと思うんだけど」
 お互い名前しか知らない。いや、アキードはおそらくサティーナのことを知っているだろうが。
 アキードはことりと茶器を机に置くと、ちらりと窓の外を見た。
「…そうだな。そこからにするか」
 どうやら承知してもらえたようだ。少し考えた後に、詳しいことはここでは言わないと釘を刺してから話始めた。
「俺はトリウェル・アキード。現在は貴族の雇われ剣士というところだな。育ちはクラム・パルテ神殿。それ以前のことは知らない」
 神殿育ちとは、つまり拾われたということを意味している。
 意外な過去まで知ることになったサティーナは、どう反応していいのかわからずただ、「そう」と一言で済ませてしまった。
「ええっと。私はハルミス・サティーナ。みんなサナって呼ぶわ。出身はポンシェルノ市国。両親と、兄が一人いるわ」
 姓名を出すときに少しだけ緊張したが、アキードはお茶を飲んで「そうか」と言っただけだった。
 その様子でやはり知っているのだと確信する。
 ポンシェルノの宿屋ハルミスは誰でも知っているくらい有名な宿屋だ。そのくらいの自覚はあるサティーナは、あまり自分の姓を人に明かしたりはしない。それを知った人の反応があまり好きではないからだ。
 そこまで考えてふと、アキードも姓を名乗らなかったと気がついた。
 男性が自分を呼ばせるのにわざわざ「アキード」と名乗るのも、考えてみれば少しおかしい。
 アキードの名前も何かあるのだろうか? 名前といえば、あの契約魔の男性がサティーナのことを愛称のサナと呼んだのも気になる。
 ココニアを食べ終え、お茶を飲みながら、またしてもぐるぐると考えを巡らせているとアキードが席を立った。
「出るか」
 他に客も並んでいることだ、そろそろ店を出たほうが無難である。
「うん」
 サティーナも同意して勘定を済ませ店を出ると、外はすでに夕闇が去って夜の帳が下ろされていた。
 店の前はやはり人が沢山並んでいる。旅行者だけでなく、どうやら地元の住民も並んでいるようだ。
 その様子を見てまた新に感心した様子でサティーナはため息をつく。
「それにしても、あの人、どうしてこんなお店知ってたのかしら?」
 素朴な疑問である。彼は契約魔。魔種である。謎だ。
「ああ。でも、もう一度あのココニアは食べたいな〜。考えることがありすぎてあまり食べた感じがしなかった」
 少し非難も入っていたのだが、目の前を歩くアキードに届いたのかは不明である。
 
 
 イノの夜はポンシェルノの夜に比べて明るかった。
 店の数が圧倒的に多いからだろう。その店から洩れる明かりで、手に持つランプに火を入れる必要もないのだ。
 アキードの後ろを大人しく歩いていたサティーナだったが、その向かう先に自分の泊まる宿屋があることに気がついた。
 もしかして、と思っていると、やはりアキードはサティーナの泊まる宿屋へ入った。
「部屋はどこだ?」
 当たり前のように聞かれ、サティーナは自分の部屋へと案内する。
 鍵を開け、中に入るとそこはすでに明るかった。
 部屋は狭いが一人が泊まるには十分な広さだ。ベッドと小さな机があり、窓にはレースのカーテンが付いている。部屋の中を照らしているのは、天井から釣り下がり式になっている火球(かきゅう)のランプだ。
 火球のランプはガラスの中に光る液体"パノ"が閉じ込められているものである。パノは高価であるが、半永久的に使えるために宿屋には大抵置いてある。しかし高価なパノを少しケチっているのか、部屋はあの食堂よりも少し暗い。
 その部屋の真ん中に見慣れたあの黒い獣…いや、犬型の契約魔が座って待っていた。こちらも当たり前のように声を掛ける。
「遅かったな」
「…どうしてわかったの?」
 複雑な心境でサティーナはアキードの契約魔に尋ねた。
「オマエを探すのは大変だったんだぞ」
 逆に抗議されて、サティーナはさらに複雑そうに契約魔、ノアを見つめた。
 そんな二人の会話を聞きながら、アキードは窓の外の様子を窺いながらノアに尋ねる。
「気づかれたか?」
「いいや。…というよりは、オマエに関心がないんだろう。コイツを探すほうを優先させている。オレたちには気がつているだろうが、知らないふりをしているというところか」
 サティーナは買ったランプと鞄を床に置き、ベッドに腰を下ろしてアキードとノアを交互に見やる。
「私を探している人がいるの?」
「なんだ、オマエ知らないのか」
「だって、誰も説明してくれないんだもの」
 半ば諦めの入ったサティーナの言葉に、アキードが苦笑して近くにある机に脱いだマントと剣を置き、ついでに自分も寄りかかる。
「それで、何を知りたい?」
 アキードの質問にサティーナは考える。
「沢山ありすぎて何から聞けばいいのかわからないわ…母のことが一番だけど、その前に、はっきりさせてもらわないと…」
「?」
 サティーナは一度、部屋の入り口を確認し、それからアキードに向き合った。
「アキードは私の味方なの?」
 背筋を伸ばし、毅然と真直ぐアキードに問いかけた。
 敵ではないとは思っている。しかし、明確な味方だという保障もどこにもないのだ。
 真直ぐに見つめるサティーナの言葉に、アキードは驚いたような表情を浮かべ、くすりと小さく笑い、おもむろに剣を取り出した。
 サティーナは態度こそ崩さなかったが、心の中はすでに逃げ腰だ。
 アキードは剣を携え、ゆっくりとした足取りでサティーナの前に立つ。
 火球のランプを背にしたアキードは、まるで断罪に訪れるという死神のような圧力をもってサティーナに迫る。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
 絶対絶命――。この場でそれ以外の言葉が浮かんでこない。怖くてしょうがないのに、体は硬直し逃げるという動作に移れない。
 固まったまま視線を外さない、いや、外せないサティーナにアキードは膝を折って視線の高さを合わせた。
「失礼した。貴方に余計な警戒をさせてしまった。私は貴方の味方です」
 そう言うとアキードは鞘に収まったままの剣を横にして、サティーナの膝の上に置いた。そしてゆっくりと立ち上がり後ろへ後退する。
 一連の動作は流れるように当たり前のように行われ、殺される覚悟を決めていたサティーナには何が起きたのか判断がつかない。
 呆然と元の位置に戻るアキードを見つめ、渡された剣をゆっくりと見下ろした。
 そっと触れてみるとそれは確かにそこにある。
(………つまり、これは、どういうこと?)
 体も思考も固まったサティーナの耳に、くすくすと忍び笑いが聞こえていた。