そのため、歩くのもさして難しくはなく、森の中を歩くこと四日目にして一行は幽鬼の森を抜けることに成功したのだった。
「意外と速かったな」
暮れかけた森を抜けると、そこからイノの町灯りが見て取れた。
アキードの予測では五日ということだから、サティーナの足はかなり丈夫だったようだ。
「はぁ〜。やっとベッドで寝られるのね」
後ろについて歩いていたサティーナが、大きなため息とともに疲れた様子でそういった。
「オレはここまでだな?」
「そうだな」
ノアがアキードを見上げて聞くと、サティーナはノアにお礼を言った。
「ここまでありがとう。本当に助かったわ。アキードだけだったらきっと途中で挫折してたわ。本当にありがとう」
アキードの性格からしておそらく気の紛れる話などしなかっただろう。それを考えれば話し相手になってくれていたノアには感謝しきりだった。
本気で感謝しているサティーナに、当のノアは尻尾をパタパタさせ、落ち着かない様子だった。
「とりあえず道中気をつけろ。じゃあな」
照れたようにそう言い残し、初めて会ったときのように闇の塊のような姿はそのまま森の闇に溶けていった。
「行くぞ」
「うん」
それを見送るとアキードに促され、イノの灯りに向かって歩き出した。
地方都市イノ――。
ここはターシア国とトルム国を結ぶ町であるが、どちらの国にも属してはいない。そのため「自由都市」や「自治都市」とも呼ばれている。
自治なため自警というものがあり治安もよく、三国を結ぶ街道上にあるため、宿泊施設やその他にも様々な店が並立していて、なかなか発展している都市だ。
町の周りは盗賊対策に木製の柱を打ちつけ、柵のようなもので囲んでいる。所々に入り口があって、そこには小さな見張り小屋があり、自警が出入りする人間を監視していた。
サティーナたちは街道に一度出てからイノへと入った。
「はぁ。噂には聞いていたけど…本当にすごいわ」
まるで要塞のような町の外観にも驚いていたのだが、中に入ってさらに驚いた。
とにかく活気が違う。まるで一国の首都ではないのかと思えるほど賑わっている。
路上の店にも簡易の屋根があり、その下で野菜やら肉やらが山のように積まれているのだ。店の客寄せの声や、客との値引き交渉の声。食事時なのであちらこちらの飲食店からは空腹を増大させるいい匂いがしてくる。
うっかりするとはぐれてしまいそうなくらい、見渡す限り、人、人、人。
ポンシェルノもかなり栄えている場所であるが、人がひしめくほどの道を見たことがなった。
「イノもだが、マゼクオーシはもっとすごいぞ」
マゼクオーシも街道上にある都市の名だ。
「確かヴィーテルの手前にある町の名前よね」
イノ以上の町とはどんなものだろうと、サティーナは胸を躍らせたが、同時にそこまでどのくらいの距離だろうかと冷静に考えてもいた。
とりあえず人ごみから出ようと大きな通りから外れると、ちょうどそこに小さな屋台が立っていた。
「かわいい。あれって何?」
女性が一人でやっている店で、全てが手の届く範囲に商品が並べられているという、本当に小さな屋台だ。その屋台に所狭しと並べられている小物にサティーナは心引かれてアキードに尋ねた。
「ああ。お守りだ。ポンシェルノにはお守りは売ってないからな」
物珍しそうにサティーナは店の前に立って商品を見はじめた。アキードはそんなサティーナにため息をつきながらも同じように店の前に立つ。
売っているお守りは色々と種類がある。サティーナはその一つを手にとってみた。
親指ほどの薄い木の板に焼印が押されていて、大きくなればなるほどその焼印は複雑な紋様になっている。
他にも薄い鉄の板や、ガラスの板など様々な種類がある。
一番安いのは厚紙で、どうやら強度が増すほど高くなっているようだ。
「効果はあるの?」
サティーナはしげしげと見つめてから小さな声でアキードに聞いた。
「"お守り"だからな。持っていて安心感があれば十分だろう」
効果のほどではなく、気持ちの問題ということだ。
「そっか。私も一つ買おうかしら」
今自分に一番必要なものの気がして、サティーナは木製のお守りを一つ購入した。
手の中にすっぽりと納まるその小さなお守りをしっかりと握り締めると、なにやら念じる。その様子をアキードは黙って見守った。
賑わう大通りより少しは静かな商店街へ出ると、アキードが歩みを止めてサティーナを振り返る。
「イノはポンシェルノよりも治安がいい」
突然の言葉にも、珍しくサティーナはすぐに頷いた。
「ええ。ここまでくれば一人でも平気よ。おかげで時間も短縮できたし、本当にありがとう」
頭を下げてお礼をいう。おそらくアキードは元々あの森を通るつもりだったのだろうが、サティーナがいたおかげで無駄な時間を浪費したことだろう。それでも、見捨てることなくイノまで連れてきてくれたのだ。
これ以上アキードの足を引っ張るわけにはいかない。
「これからどうするんだ?」
にっこりと微笑むサティーナを見て、アキードは少し心配そうに尋ねた。
「とりあえず一泊するわ。それにお風呂に入りたいし…でもお金もあまりないから贅沢は言っていられないわね。明日の朝一でここを出ることにするわ」
「そうか。治安はいいとはいえ、気をつけろよ」
「うん。ありがとう。じゃあね」
そういうとサティーナは手を振ってアキードと別れた。
雑踏に紛れるサティーナの背中をしばらく見つめてから、アキードもその場を動き出した。
一人になったサティーナはとりあえず宿を探すことにした。
これだけ人がいるので果たして泊まれるようなところはあるのかと危惧したが、なんとか格安の宿を探すことに成功した。
「一人でいらしたんですか?」
支払いを済ませ宿泊名簿に名を書いていると、店員に聞かれた。
「はい。あ、途中までは他の人たちと一緒だったんですけど、宿はさすがに…」
「そうですね。…ターシアからですか、トルムまで?」
サティーナが書き終えた名簿に目を落として尋ねる。
「はい。あの、近くにお風呂ってありますか?」
この宿屋は安い代わりに寝るだけという宿だ。ポンシェルノにも数多くある。
「湯屋はここを出て右にすぐです。看板が見えますからわかりますよ。ただ、食堂は少し歩いたところにしかありません。これが部屋の鍵です。ごゆっくりお休みください」
「ありがとう」
サティーナは早速渡された鍵についている部屋の番号を見つけ、荷物を置くと、必要な物だけをもって湯屋へと向かった。
旅というものは口に乗せるよりもつらいもので、真っ先に犠牲になるのは身体をきれいにすることである。特に徒歩の場合、水は水筒に入る分しか持てないため、飲む以外に使用するわけにはいかないからだ。
それでもサティーナの場合かなり恵まれていたというべきだ。契約魔のノアが水のある場所を教えてくれたため、顔も洗えないという悲惨な状況にはならなかった。
宿屋を出て右を見ると、確かに大きな看板がある。「花の湯」と書かれている。
湯屋に入るとその名の由来がわかった。脱衣所にもほのかな香りがしていたが、湯殿に入いるとその正体が湯船いっぱいに浮かんでいた。
「すご〜い。きれ〜」
白を基調に、赤、桃色、黄色、緑と色とりどりの花びらが浮いていた。
あまり広くない湯殿にはサティーナの他にも何人か女性がいて、サティーナ思わず洩れた感想ににっこりと微笑む。
(何の花かしら? 少し香りが強い花じゃないと無理よね。香水でも入れているのかしら? ああ、でも、お掃除大変そう…)
お湯に入る前に丁寧に体を洗いながら、ある意味職業病ともいえることを考える。湯船に首まで浸かると自然に大きな息が洩れた。
(アキードはどうしたかしら?)
ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
道中彼とはそんなに話をしたわけではなかった。どちらかと言えばノアと話しをしている。ノアの話からアキードのことを聞くこともあまりなかった。
契約したのが二年前ということだから、仕方がないとも言えるが。
(何をしてる人だったんだろう? 剣士で、十九歳で、契約魔持ち…ターシアの人なのかしら?)
基本的に人の外見からどこの国の出身かを知るのは難しい。あえていえば、ターシアには黒髪黒目が多く、ヴィーテルには金髪青目が多い。
アキードの外見は黒髪に青い目。どちらとも判別できる。
今さらながらに母が言っていた、ヴィーテルの人間には気をつけろという言葉を思い出していた。
(それにしても何があったのかしら? あの小袋の中身も気になるし…)
顔を半分お湯につけてぶくぶくと泡を立てて考える。
あの日の朝、いったい母になにが起きたというのだろう。どうして兄ではなく女の自分に頼んだのだろう。見送りに出ていた父は知っていたのだろうか。
(脅しに屈するなって、もしかしたらこれから先、そういうことがあるのかしら?)
暖かいお湯に入っているのにどこか背筋が寒くなって、ぎゅっと膝を抱え込んだ。先行きの不安と、この先一人旅だということに気がつき、気分は一気に下降線をたどった。
(無理にでもアキードについていけばよかったかしら…)
でも、彼も彼で急いでいるのだ、お荷物になることは間違いない。
(…だめだ! 考えれば考えるほど暗くなるだけだわ)
この先のことを考えるのはお腹を満たしてからでもいい。そう気分を切り替えると湯船から出た。
サティーナとアキードが別れた頃、町の入り口に数人の体格のいい男たちが入ってきた。
灰色の揃いのマントを羽織っているところを見ると、どうやらターシア国の官僚のようだった。
入り口を守っている自警が彼らを見つけると声をかけた。
「失礼ですが何かあったのでしょうか?」
ここはどこの国にも属さない自治区である。他の国の干渉をあまり好まない。とりわけ捕り物には敏感だった。
「いや、泊まりによっただけだ。気にすることはない」
そういうと男たちは町の中に入っていった。
それを見送る自警は渋い顔をした。
「気にするなだ? そう言って騒動が起きなかったことなんかないじゃないか…そういえば、盗賊が出たとか言ってたな?」
三日前に届いた知らせを思い出す。商人の情報はとにかく早い。
「ああ。ポンシェルノの近くだ。貴族の品だそうだが…それか?」
「かもしれん。まったくここをどこだと思ってやがるんだ」
ここイノは自警が民間ということもあり、情報網は首都の警備兵の遥か上を行く。非合法の店や、そういった品物を扱う人間の話が彼らの耳に入らないことなどないのだ。
「んん? あいつらトルムから来たのか?」
「ああ、そういえばそうだな」
彼らの入った入り口はトルムから来る人間が真っ先に目にする入り口だ。必然的にトルムからくればこの入り口を使う。
しかし、ターシアのある方角は真逆だ。灰色のマントの彼らがこちら側から入ってくることはない。それに別の入り口を使うにも、真逆のこちらを使うこと自体おかしい。
「トルムからの帰りか?」
「ああ、それもあるな。そうなると本当にただの泊りか」
それならそれでいいと話す彼らに、さすがに灰色のマントを追いかけて「どこからきたんだ」と問いかけるほどの勇気はなかった。