男性はまるで見えているかのように暗い森を難なく歩いていたが、サティーナにそれは無理な話だ。
「きゃっ!」
森に入って何度目になるかの転倒に、付いて歩くのを諦めようかと真剣に考え始めたころ、ようやく男性がランプに火を入れた。
「大丈夫か?」
一応心配しているのか、ランプを掲げて聞く。
「大丈夫じゃないけど、今のところ平気……それよりも、進む方角は合っているんですか?」
道のない森の中、夜であることも手伝って方向が分からなくなる。幽鬼よりも気をつけなければならないのはそっちのような気がした。
「俺の勘が狂ってなければな」
「勘…」
その答えにサティーナは限りない不安を覚え、何度も転んで痛む膝をなでながらため息をついた。
「もう少し行くと開けた場所に出るはずだ。そこまでがんばれ」
その姿に何を感じたのか、励ましの言葉を口にして手を差し出した。
サティーナはその手につかまって立ち上がりながら思わず苦笑した。
「どうせ励ますなら笑顔のほうが効果あると思うわ」
その言葉に男性は目を瞬いた。その様子からどうやら言葉の意味を理解していないようだ。
この男性。荷馬車にいた女性が頬を染めるくらいには整った顔立ちをしている。出会ってから今まで完璧に近い無表情であるが、笑えばさぞかし魅力的だろうと思われた。
しかし、当人にその自覚などこれっぽっちもないらしい。
言葉の意味を考える姿に思わず吹き出してしまい、慌てて口に手をやる。
笑われた男性は少しだけ眉を寄せ、ふいと背中を向けると歩き出してしまった。
(…あ。機嫌を損ねたかしら?)
ランプの明かりがあることで、多少は歩きやすくなった森の中を、転ばないように離されないように歩く。
男性の言ったとおり、あまり進まないうちに木々の開けた場所に出た。ここは月の光も差し込んでいる。
「今日はここまでだな。足は大丈夫か?」
こくりと頷くサティーナは、荷物を置くよりも早く座り込んでしまっていた。
暗い森の中を長時間歩きとおした経験などもちろんないため、精神的にも肉体的にもかなり消耗していた。
「そういえば、野宿って初めてだわ」
少し心細くぽつりと呟く。荷物を置いて辺りを見回すと、男性はすでに見える範囲で枯れ木などを集めていた。
サティーナもそれにならい枯れ木を集めていると、どこからか獣の遠吠えが聞こえた。
その声にどきりとして男性を振り返った。
「あの、ここって狼とかいるんですか?」
「…狼ならまだましだろう?」
こともなげに言う男性は相変わらず無表情だ。
(聞いた私が馬鹿だったわ)
言外に幽鬼も出るといわれたような気がした。
今夜は寝れるのだろうかと思いながらも、集めた枯れ木で焚き火を作る。ランプよりも大きな火の明かりに少しだけほっとするが、盗賊に襲われたとき以上の不安が暗い森の中からやってくるようで落ち着かなかった。
火を見ながら胸のあたりをぎゅっと握ると、固い感触が伝わる。
(…そういえば、これってなにかしら?)
渡された小袋について、母は何も話してはくれなかったことにようやく気がつく。中には何か小石のような物が入っているようだ。
中身を取り出してみようかと思ったが、男性がいることもあり思いなおした。
男性が枯れ木を持ってサティーナの側にやってくると、暗い森の中でごそりと何かが動く音がした。
サティーナは思わず立ち上がり、逃げる体勢をつくった。
「動くな。火の側のほうが安全だ」
男性はそう言うと火の側に腰を下ろした。
まったく動じない男性の姿にサティーナも少しだけ心を落ち着け、男性と同じように火の側に座り込んだ。
しかし、周りの闇に潜む何かの気配は消えてはくれない。
火の側にいるにもかかわらず、緊張と不安で手先がやけに冷たい。サティーナは近くに置いた荷物をしっかりと抱いて焚き火を見つめた。
不安げに焚き火を見つめるその瞳は炎を映し、昼間よりも赤くなって見えた。
「大事な用なのか?」
「え?」
突然話題をふられてサティーナは何を聞かれたのかわからず聞き返した。
「こんな危ない道を急ぐほどの用なのか?」
焚き火の具合を見ながら尋ねる男性の質問に、サティーナは一瞬ぽかんとした。言われて初めて気がついたとでも言いたげな表情に、男性は呆れたようにため息をついた。
「えっと、それは…近道だって聞いたから。こんなに危ない道だなんて想像してなかったし。それに、できるだけ早いほうがいいみたいだし……」
答えながら考える。
母には確かにできるだけ早くと言われたが、それは決して危険を冒してまでもという意味ではなかったはずだ。それでも急いだのにはわけがある。
(お母様があんなこと言うから…)
『この先何があっても諦めないで。そして母に関するどんな脅しにも屈してはいけません』それともう一つ。『ポンシェルノを出たら母は死んだと思いなさい』
その言葉がサティーナの心にずっと引っかかっている。
(死んだと思えだなんて)
切迫した母の姿に、とにかく早くヴィーテル国へ、そしてジュメル卿に会わなくてはならないと、ただそれだけを強く思った。
荷物を抱えてつま先を見つめたまま沈黙したサティーナに、男性もそれ以上質問はしなかった。
しばらく静かな森には焚き火の爆ぜる音だけがしていたが、また暗い森の中を何かがごそり動いた。
深く考え込んでいたサティーナもその音に現実へと引き戻され、音のするほうへと目を向けた。
その音は重く、何か大きなものが這い回っているようだ。
「火を焚いたから集まり出したみたいだな」
「な、何がですか?」
してはいけない質問だとわかってはいるが、聞かずにはいられなかった。
「幽鬼って魔種は光に集まる習性がある」
「光に集まるって…」
男性がランプに火を入れなかった原因もどうやらそれのようだ。
しかし、その説明にサティーナは拳を震わせた。
「だから! どうして! 最初に言ってくれないの?!」
静かな森にサティーナの怒りの絶叫が響きわたった。
男性はその絶叫を平然とやり過ごすと、軽くため息をついた。
「…ノア。近くにいるか?」
誰にともなく語りかけた男性にサティーナは眉を寄せる。と、そこへ暗い森の中から闇の塊が近づいてきた。
「!!」
音もなく現れたその生き物は、真っ黒な毛並みを持つ獣で、サティーナは悲鳴を飲み込み、硬直した。
しかしその獣は、姿以上の衝撃をサティーナに与える。
「どうした? 珍しいな。道に迷ったのか?」
「い! 犬がしゃべった!!」
サティーナは叫ぶと同時に荷物を放り、一番安全と思われる場所、男性の後ろに逃げ込んだ。
「落ち着け。俺が呼んだんだ」
森から出てきた獣も、サティーナの声に驚いて足を止めた。
「いつから一緒にいる?」
大きな獣は男性の後ろに隠れたサティーナをまじまじと見て聞く。
「今朝からだ」
「ふぅん…」
獣は恐れることなく火の側に近づくと、すとんと座った。その姿はサティーナが言ったように、一見犬のように見えるが、その大きさからいって狼と大差ない。
「オレを呼んだのはコレのせいか?」
「そういうことだ。この森を抜けるまで一緒にいてやってくれ」
「珍しく呼んだと思えば…お守りか」
「お前のお守りをする俺の身にもなれ」
「…噛み付くぞ」
男性のマントをしっかりと握り締めていたサティーナは、この二人…一人と一匹の会話を聞き、徐々に落ち着きを取り戻し尋ねた。
「…あ…もしかして、"契約魔"?」
「そういうことだ。これでも結構強いはずだから幽鬼程度なら寄ってこないだろう。とにかく今は寝ておけ。明日も歩くぞ」
振り返った男性の顔が想像以上に近くにあることに気がつき、サティーナはぱっとマントを離した。
「う、うん…」
何となく居たたまれなくなり、いそいそと男性の後ろから離れ、放り投げた荷物のところに戻った。
近くで見た男性の瞳は不思議な青緑色をしていた。
(びっくりした)
再び荷物を抱え、自分を落ち着かせるためにふうと息をついた。
本当はすぐにでも寝てしまいたいくらい疲れていたが、どうにも寝られるような状況にない。荷物に顔を埋めてみたが、やはり睡魔より目の前の契約魔のほうが気になる。
契約魔はその名の通り、人間と契約している魔種を指す。そのため人間に害をなさないと父親から聞かされていた。しかし、聞くのと見るのでは話が違う。
(お父様。やっぱり怖いものは怖いです!)
「そういえば、まだ名乗ってなかったな。俺はアキード。こいつはノア」
寝る気配のないサティーナに何を思ったのか、唐突に男性は自己紹介をした。
「え…っと、私はサティーナ」
サティーナは少々面食らいながらも名乗る。
「ポンシェルノの出身か?」
「ええ。そう…だけど……?…」
眠気などまったくなかったサティーナだったが、突然やけにまぶたが重くなった。
必死に目をこするがあまり効果はない。
(うわ、眠い……)
そう思った次の瞬間、サティーナは眠りの中へと落ちていた。
突然眠りについたサティーナを見ても、アキードと名乗った男性は冷静だった。
抱えた荷物に、顔を埋めた体勢で寝たサティーナを、ゆっくりと起こさないように横にしてやる。
その様子見ていた契約魔は確認するように彼に尋ねた。
「ソレ、赤目だったよな?」
「ああ。それがどうした?」
契約魔はサティーナに近づくと確かめるように凝視した。その様子にふと、つい先ほど、サティーナの声で驚いていた契約魔の姿を思い出す。
「…もしかして、気がつかなかったのか?」
眠るサティーナを見ながら契約魔は感心したように呟いた。
「こんな光の弱い赤目、初めて見た」
「光が弱い?」
アキードの問いに契約魔は頷いた。
「オマエたち人間は光を持ってる。力の強いヤツほど光は強い。オマエがどこにいてもすぐわかるのはそのせいだ。でもコイツは赤目なのに光が弱い」
契約魔の話にアキードもサティーナを見る。
「何かあるのか?」
「いいや、何もない。元々そうなんだろう。ただ、それとは別に何かを強い力で封じられてるな。まぁ、害はないだろう」
「強い力…」
呟いた声に契約魔はアキードに視線を移すと、「ああ」と何かに気がついた。
「ポンシェルノか。オマエ、コレ連れて歩くのか?」
契約魔の言葉にアキードは顔をしかめた。
「仕方がないだろう。それに害はないんだろ?」
「今のところはな」
無責任な契約魔の言葉に、アキードは不機嫌そうに、半ば睨みつけるように契約魔を見る。
「面倒なら棄てればいい。名前がわかってるんだ、このまま眠らせておけるぞ?」
あっさりと見捨てる提案をする契約魔にアキードは首を振る。
「イノまでは一緒に連れて行く。乗りかかった船だしな」
「…そうか」
彼らの会話が終わる頃には、周りにあった気配はいつの間にやらなくなっていた。
一話 了