柔らかいベッドの上。自分の部屋だとわかるが、何か忘れている気がした。そう、今見た夢がなんだったのかを忘れたような。
「おはようございます。気分はいかがですか?」
そう問われ、視線をやると黒髪の女性。
「マーサ?」
「はい」
にっこり微笑むのはスノーリル付きの侍女。しかし、いつもいるのはカタリナで、珍しく今朝はその姿がないようだ。
そこまで思い、がばりと起き出した。
「カタリナは!?」
スノーリルの剣幕に驚いたマーサは目を丸くしたが、すぐに曖昧な表情で言葉を濁した。
「カタリナは具合が悪いらしいので、今日はお休みすると」
「カタリナ、どこか怪我してるの?」
スノーリルの問いにマーサは驚き、そして浅くため息を吐き出した。
「いいえ。スノーリル様。カタリナはどこも怪我はしていません」
どこか悲しそうな寂しそうな表情でそう伝えるマーサに、ざわりと予感がした。
大急ぎで扉に向かうとマーサに止められる。
「スノーリル様。せめてお着替えを」
「マーサ!」
「陛下のところへ行かれるのでしょう? 今は会議の時間です。その姿ではカタリナを探せませんよ」
その指摘に気は焦ったが、マーサの言うとおりだと思って頷いた。マーサは心得たようにすぐに着替えさせてくれた。その間に会議室にいる父に会いたいという申出もしてくれたようだった。
しかし、着替えが終わって会議室へ向かうと、まだ会議中だと言われた。
一瞬だけ迷ったが、会議などスノーリルがいなくなってからでも続けられるはずだ。こっちのほうが緊急事態なのだ。
扉の前にいた侍従をすり抜け、会議室の扉を大きく開けた。大臣たちが一様に驚いたようにスノーリルを見て、それから眉を寄せた。一人が声をかけてくるが、そんなものに構っていられる余裕などない。
「お父様! カタリナはどこですか」
単刀直入に駆け寄りながら尋ねた。
すると苦笑しながらこの国の最高権力者は「スノー」と洩らした。
「カタリナは、どこですか」
目の前までくると父はじっとスノーリルを見つめた。それは父としての視線ではなく、国王としての視線だ。この目をしたときは逸らしてはならない。この人の子として生まれて育った経験からじっと見つめ返した。
「昨日。何があったのか覚えているか」
「昨日?」
確かに今、今朝ではなく、そう言った。スノーリルは朝日が昇る前の記憶がある。つまり、今朝の出来事だとおもっていたのだが、その言葉であの出来事は昨日のことなのだと初めて知った。どうやら一日以上寝ていたようだ。思わず唇を噛む。
「カタリナは?」
もしかしたらもういないのではないのか。そんな予感に気が焦る。
「ディーディランへの船は今日出る」
それを聞いた瞬間に踵を返していた。その瞬間に鋭く名を呼ばれる。扉の前で振り返ると厳しい目をした国王がこちらを見ていた。
「カタリナが何者か、お前は知っているのか」
「知りません」
「お前の命を危険に晒したのだぞ」
「それは父上と私です。カタリナは私を助けてくれました。違いますか」
ぎりぎりと睨み合いがしばらくあり、あまりにも情けなくて涙が浮かんでくる。
「カタリナは私の侍女です。私が守ってはいけませんか」
いつも安心をくれる人だ。
一人でいた時に一緒にいてくれた人だ。
どんな時でもスノーリルを裏切ったりしない人だ。
スノーリルを好きだと言って、優しく髪を撫でてくれる人だ。
「カタリナは、カタリナです」
それだけを言って走った。とにかく走った。前に一度歩いた港までの道を心臓が壊れるくらい必死で駆け抜けた。
港に着くととにかく船を目指した。近くにいた人に今日出る船を尋ねると、ぎょっとしたように目を見開いてから、あれだと指差して教えてくれた。ありがとうと早口で言い、カタリナの姿を探す。
もう船に乗り込んでしまったのか、それともまだ乗っていないのか、それすらもわからない。それでも必死で探していると、ふいに肩に手が置かれる。思わず飛び上がって振り返るとそこに居たのはクライブだった。
「どうした?」
そういいながら、頭に布を被せてくれる。
「あの! カタリナを探しているんです。髪の長い、亜麻色で、えっと、えっと…」
半分泣きながら訳のわからない事を訴えると、クライブは一つ頷いてくれた。
「おいで」
そういうと手を引いてあの見張り台のところに連れて行ってくれる。ここで待つように言うと、クライブは上に上っていった。しばらくして、突然その見張り台から大声が響く。
「カタリナ! お前の守る人がここにきてるぞ! 早くこい!」
何事かとこちらを見る人たちが、何事もなかったように顔をそれぞれの方向へ向け始めると、その中から一人こちらにやってくる姿があった。それが誰かすぐにわかった。
「カタリナ!」
「ス…、どうしたのですか。こんなところにくるなんて」
名前を呼ぶのを躊躇い、それでも飛び込んだスノーリルを優しく抱きしめてくれる。
よかった。間に合った。そう安堵したが、傍らにどさりと置かれた荷物にぎゅっと心臓が痛くなる。
「カタリナ。どこかに行くの?」
「スノーリル様」
必死に見上げると、どこか悲しそうに見下ろされる。
「あのような目に合わせてしまったのです。陛下にも許可は頂きました。あの男たちの狙いは私でした。あれで全部だとは限りません。スノーリル様のためにも、私が側にいるのはよくないのです」
だからわかってくれと布に覆われた頭を、きっと髪を撫でてくれる。
その仕草に鼻の奥がツンとして、視界が一気に歪んでいく。
「カタリナは私を守ってくれたわ。カタリナのせいじゃない!」
ぎゅっとカタリナの服を握り締めて、一度息を整える。ちゃんと言わないとダメなのだ。これを逃したらきっと一生後悔する。
「私はカタリナに側にいて欲しい。カタリナが私を嫌いじゃないなら、側にいて。それ以上いらないから。何も、いらないからっ。だから…」
行かないで。でもそれは言えない。それはカタリナが決めることでスノーリルが口出しできることじゃない。
言い切ってしまったらもう何もかもが歪んでいて、息を継ぐのもやっとやっとで、カタリナがどんな顔をしているのかもわからなかった。とにかく必死だった。ちゃんと思いを伝え切れているのかは怪しいが、カタリナならわかってくれるという自信がなぜかあった。それはそのまま、カタリナへの信頼でもある。
ぼろぼろと涙をこぼしていると、両頬を包み込まれる。
「スノーリル様。また怖い目に合うかもしれないのですよ?」
「そしたら、また助けてくれるでしょう?」
「陛下が許してはくれません」
「私が許すからいいの」
「スノーリル様」
「私のこと嫌いになった? それならそう言っ」
「嫌いになどなりません」
きっぱりと強くそう言われ、またぼろぼろと涙が溢れる。
「カタリナ。大好き」
「…私も、好きですよ」
優しく柔らかくそう言われ、たまらずに抱きついた。その背中をゆっくりと撫でてくれるカタリナは、ほうっと息を吐き出した。
「私の負けです、スノーリル様。お城へ帰りましょう」
その言葉にゆっくりと体を離すと、カタリナも泣いていた。
「今度は何があっても、絶対に離れませんからね」
「うん!」
悪戯っぽく笑った顔とその言葉だけで十分だった。
◇◇ ◆ ◇◇
その後、カタリナと共に会議の終わった父のところへ行くと、あっさりとカタリナを許してくれた。
そもそも、スノーリル誘拐事件はごく一部の人間にしか知られていないようだ。
大臣の中でも知っているのは三人だけで、この騒動はスノーリルの一週間の失踪事件として貴族の間に広まった程度だった。
スノーリルの脱走を手引きしたのは国王であることは事実で、会議室での娘とのやりとりは、責任を感じたカタリナを必死で引き止める王女と、意地の悪い国王とのやりとして流された。
しばらくするとカタリナは"執事"という地位を国王から与えられた。どうやらこの一件に反省した国王の、カタリナに対しての謝罪なのだろうと噂された。
しかしその真相は闇の中である。