その日はよく晴れて少し風が強く、洗濯物を乾かすにはちょうど良いお天気だった。
――ポンシェルノ市国。
山間にあるこの小さな国は"奇跡の泉"と呼ばれる泉があり、その水を使った世界有数の湯治場として有名である。そのため宿屋がたくさんあり、必然的に洗濯物の数も半端ではない。その数たるや、山の斜面が洗濯物で埋まるように見えるくらいで、そんな光景から、いつしか大陸中こんな晴れた日は「ポンシェルノの洗濯日」と言われるようになった。
そんな穏やかな日常が始まる朝。
いつものように、住み込みで働いている中年の女性と一緒に、大量にある洗濯物と格闘している所へ黒髪の青年が顔を覗かせた。
「サナ。母様が呼んでるぞ」
その声に、座って洗濯をしていた同じ黒い色の髪をした少女が顔を上げた。
「兄様。お母様が?……また食器棚が開かないとか?」
サナことサティーナが少しだけ眉を寄せて聞くと、兄は呆れたように答えた。
「さぁな。またお茶が出ないとか言うんじゃないか?」
少し不器用な母親についての行動を予測する兄妹に、一緒に洗濯をしていた中年の女性が笑った。
「ふふふ。サナちゃん、ここはいいから行ってらっしゃいな」
度々ある光景に中年の女性もすっかり慣れているようだ。
「ごめんなさい。ちょっと行ってきます」
女性の言葉に苦笑を交えて謝ると、濡れた手を前掛けで拭いながら母がいるはずの居間へと向かった。
「もう、こんな時間になんの用かしら?」
少々苛立たしそうに呟きながら廊下を小走りに急ぐ。
小さなポンシェルノ市国の中でも、特に大きな宿屋の一つ『ハルミス』。そこが彼女の家である。
大きかろうが、小さかろうが、宿屋の女の仕事はどこも同じだ。特に朝は忙しく、母の些細な用事に手を貸すくらいなら一つでも洗濯物を片付けたいのだ。
家族専用の居間を覗くとそこには父の姿しかなかった。
「お父様…」
「上にいる」
母の行方を聞く前に答えが返ってきた。どうやらサティーナが母を捜していることを知っていたようだ。
「上に? こんな時間になんの用ですか?」
まだ朝の仕事が沢山ある。母の用を父が知っているなら、この場で聞いたほうが早いと思ったのだ。
「さあなぁ。早く行ってやれ」
しかし、父はのんびりとお茶を注ぎながら答えるだけである。どうやら母の用が何かまでは知らないようだ。
「は〜い」
サティーナは長い返事をし、仕方なく母のいる上の階へと足を運んだ。
上の階はサティーナと兄と住み込みの人たちの部屋がある。
その中の一つから、なにやら騒がしい物音が聞こえていた。
そこはサティーナの部屋だった。中を覗き一瞬声をつまらせる。
朝起きたときは整然と片付いていた部屋が、見るも無残に荒らされていた。
「…お母様? 何をしてるんですか?」
どういう訳か荷造りをしている母に、こめかみを押さえつつ声をかけた。その声に部屋荒らしの犯人はぱっと振り向く。
「サナ。あなたにはこれからヴィーテルに行ってもらいます」
突然すぎるその発言に、サティーナの思考は一時沈黙した。
「………は? ヴィーテル? ヴィーテルって…あのヴィーテルですか?」
サティーナは沈黙の後に訳の分からない確認のような質問をした。
というのもヴィーテルとは、ここポンシェルノから一番遠いところにある国の名で、名前やそこから来る人を知ってはいるが、馴染みがあるとは言いがたい。
「そう。そのヴィーテル国のジュメル卿という人に会って欲しいの」
「ヴィーテル国のジュメル卿…」
矢継ぎ早に告げられる母の言葉を、サティーナは混乱しそうな頭を整理するように繰り返す。はっきりいって何が起きているのかさっぱりわかっていない。
しかし、いつものおっとりとした母と違い、切迫した真剣な表情に何か大変な事が起きていることだけは漠然と感じ取れた。
「そしてこれを渡して欲しいの。できるだけ早く」
懐から小さな袋を取り出し、サティーナの手にしっかり握らせると、その上から自らの手を重ね強く言う。
「いい? 決して失くしたり、人に渡したりしてはいけませんよ」
呆然と目を瞬き、事態を飲み込めていない様子のサティーナを見て、母は説明の代わりにこう言った。
「全てはジュメル卿に会えばわかるわ。…サティーナごめんなさいね。あなたをこんな大変な目に合わせるとは思ってもいなかったわ。いいえ、よく考えれば分かったことなのに…。こんな母を許して」
「お母様…」
こんなに切羽つまった母を見たのは初めてだった。
とても辛そうに苦しそうに、手を握り締め謝る母の姿に、サティーナは考えるよりも早く答えていた。
「何があったのかはわかりませんけど、私がそのジュメル卿に会えば解決するんですね? でも私、ヴィーテルまでの道を詳しく知らないですよ」
にっこりと承諾する娘を、母はしっかりと抱きしめ「ごめんなさい」と謝った。
どうやら急がねばならないようだが、目的地であるヴィーテル国まで最速最短でも実に二十日近くはかかる道のりだ。まさか全行程を徒歩で行くわけにもいかない。
しかし、その点は心配いらなかった。ここは世界有数の宿屋が密集している、いわば旅人の坩堝(るつぼ)と言っても過言ではない。
荷馬車を持っている旅商の供に加えてもらうのに不自由はなかった。
「ヴィーテルまで一緒にかい? それは一向にかまわんが、トルム回りになるんだがいいかね?」
旅商のまとめ役の男は顎髭を撫でながら答える。
ポンシェルノからヴィーテル国に向かう一番の近道は、ターシア国を横切る道である。ポンシェルノは市国という、ターシア国の一部にくっついている小さな国である。どう考えてもターシア国を通ったほうが近かった。
「何かあったんですか?」
「ああ、どうやらターシアのお姫様がヴィーテルへ嫁に行くらしくてな。そうなると、花嫁一行を追い抜くのは厳禁だし、ホルトロ橋も渡れなくなる。それを考えるとトルム回りのほうが速いからな」
まとめ役の男の話にサティーナは驚いた様子で尋ねた。
「ターシアのお姫様が結婚?……それってユーセイン王女様ですよね?」
「ああ、そうだ。で? どうするお嬢さん。やめるかい?」
旅商の荷馬車にはすでに荷物がつけられ、いつでも出られる状態だ。あとはサティーナの判断次第である。
「ご一緒させてください」
同行する旅商も決まり、いよいよ出立となると、見送りにきていた母がサティーナの荷物を渡してくれた。
「サナ、これだけは守ってちょうだい。この先何があっても諦めないで。そして母に関するどんな脅しにも屈してはいけません」
その言葉の意味するところはよく分からなかった。
「それと知らない人にはついて行ってはいけませんよ」
「お母様ぁ…」
真剣に助言する母に、真剣に脱力感を覚えた。
「お母様。私、知らない人についてヴィーテルまで行くことになっているんですけど、ご存知でしたか?」
「あら。そうね」
母の助言はいつものことながら間が抜けていた。
「大丈夫です。お父様に護身術も教わってますし」
旅商にも護衛がついていることもあり、母が心配するほどサティーナはヴィーテルまでの道のりに特に不安はなかった。
明るく言うサティーナに、母はようやく笑顔を見せると再度真剣な目でこう言った。
「くれぐれもヴィーテルの人間には気を付けて。ポンシェルノを出たら母は死んだと思いなさい。気をつけてね」
そしてしっかりとサティーナを抱きしめた。
母が口にした「死」という言葉に急に不安にかられたが、母の心配を少しでも軽くしたくて笑顔で答える。
「大丈夫です。私は"ハルミスの子"ですから」
それを聞くと母は力強く頷いた。
最後にキスをして馬車に乗り込み顔を出すと、遠く父の姿もあったことに初めて気がついた。
「行ってきます!」
馬車が動き出すと両親に向かって手を振った。
あの追い詰められたような母の表情に、想像も付かない何かが起こっているということだけは確かだ。そして、どうやら母はそれに少なからず関わっている。
(大丈夫よ。ヴィーテル国のジュメル卿に会うだけだもの。心配ないわ)
それだけのことなのだから、そんなに大変なことはない。そう自分を勇気付け、馬車に揺られ故郷を後にした。
しかし、まったく予期せぬ異変が起きたのはその日のことだった。