時間は真夜中である。
外はコンビニの看板と街灯と、同じく夜更かしいている者の部屋の明かりしかない。
それほど田舎ではないが、それほど都会でもない。
そんな中途半端に発展をした町に私は住んでいる。
「………3分か」
ちらりと時計を見やってから先ほどからずっと鳴り続けているベッドを見る。
いや、ベッドが鳴っているわけではない。その中へ突っ込んだ携帯電話がずーっとしぶとくなっている。
鳴っている着信音は単調な電子音。
他のものは全てなにかしらの曲を設定しているため、電子音が鳴ることはほとんどない。たまに鳴ったとして間違い電話か俗に言うワン切り程度。
しかし、先ほど鳴り出した単調な電子音は大雑把であるが、およそ3分鳴り続けている。
一つため息をついて、携帯をベッドから取り出して開いてみる。
ディスプレイには知らない番号が並んでいる。つまり、知らない人。
「出るべき?」
何かの緊急でかけていた相手が番号を間違っている場合もあるし、ただの酔っ払いということもある。しかし、一度切ってもう一度かけなおすということをしない相手だ。危ない人である可能性が高い。
ディススプレイを凝視し、しばらく悩む。
そんな私を嘲笑うかのように、蜂蜜の大好きな有名なあの熊が繰り返し笑ってる。
「こんのにしてたっけ」
普段は知り合いからしかかかってこないため、画面も確認しないですぐに出る。そのため自分がしたはずの設定も忘れている。
さて、そろそろ4分になるか。
さすがにもう諦めてもいい頃だぞ。
問答無用で電源を切るか。
そう思った瞬間。単調な電子音が鳴り止んだ。
「止まった」
とうとう諦めたか。
「うん。カップラーメン食べれるからね」
それほどの時間、鳴らし続ける人間というのもすごいな。
心理的に人間は呼び出しコールを7回以上待たないものである。中には4回聞いて出なければ切る人間もいるほどだ。それだけ呼び出しコールには人を心理的に追い詰める要素がある。それをものともせずに4分も継続できる人間とはさて、どんな人だろう。
「相当な暇人。ああ、嫌がらせ?」
そうか。もしかしたら嫌がらせ?
だとしてもあちらから切ったのはなぜだ?
着信履歴も残っているんだから犯罪をしようとはしてないのか?
「謎だ」
考えれば考えるほど謎だ。
もしセールスやキャッチなら4分を一人には使わないだろうし。知り合いなら私の性格を知っていそうなものだ。それ以外で、電話をしてくる人物。
「………やっぱり謎…うわ〜」
そんな思案をしていると、またしても同じ番号からの電話が鳴った。
しばらく着信だと知らせる熊を見つめてから出ることに決めた。
そこにあるのは好奇心という名の誘惑。
「はい」
名乗る義務はないので返事だけ。
しかし、向こうの相手は意外な返事をよこした。
「あ。繋がった。こんばんは。雪乃さん」
「…誰?」
不審感全開。
そう、その人は私の名前を知っていた。つまり"私"に電話をしてきたのだ。
「ああ、ごめん。木崎です。覚えてないだろうけど」
「木崎さん?」
聞こえる声は男性のものだ。
彼の言うとおり、私には覚えはない。特に男性に電話番号を教えた記憶はない。しばらく"木崎"という人を頭の中で検索してみるが引っかからない。
「すみません。覚えていません」
「うん。そうだろうね」
声には出さない笑う息遣いが電話口から聞こえる。当然、耳元でするその音に妙な色っぽさを感じ、一度携帯を離してため息をついた。
最近の携帯は性能があがったよね。なんて思いながらもう一度耳にあて、あれほど呼び出しを鳴らし続けた用件を尋ねた。
「それで、私に何か用ですか?」
とりあえず会ったことはあるらしい木崎さんに尋ねると電話口で笑われる。
「いや」
「………」
嫌がらせか。そう判断し、電話を切ろうとしたのがわかったのか、木崎さんは「嘘だよ。待って」と静止をかけた。
「声、聞きたくて」
「は?」
あんたは私の恋人か!?
言葉にせずとも伝わるだろう低い音で聞き返す。
「おかしい?」
そりゃ、おかしいだろう兄さん。
もちろん声には出しません。出さなかった私は偉いなど思ったり。
「私がお話することはありません」
曖昧な返事をしたらのらりくらりと延長しそうな通信に、私はきっぱりと言い切った。ええ、もう一刀両断するくらいの勢いで。
「俺はしたいんだけど」
またもや電話口の向こう側で笑う息遣い。
「ほんとに。覚えてないかな?」
今度は真剣に逆に尋ねられた。
「ですから、私は木崎という人は知りません。いや、だいたいどうしてこの番号知ってるんですか」
そうだ、一番そこが肝心だ。
私はこの男性に番号は教えていない。それなのにこの男性は私の番号を知っているのだ。つまり誰かから聞いたのか、情報が洩れているか。
「職権乱用してるんですか」
どんな職かはわからないが、そっちだったら犯罪だ。
つっこんだ私の質問に電話口でくっくっと笑う声がする。
「あの…」
真面目に聞いているのに、笑うか。そんな事を思いながらどうも、この声に弱い。低音で張りがあるが、これといって特徴があると言えるほどの癖はない。強いて言うならやけに色っぽい…艶があるとでも言うのか?
どうやら堪えているらしい笑い声にすらその艶がある。
「職権乱用はしてないけど、そうだな。雪乃さんの知らないところで番号を教えてもらってるから、そうとも言い切れないかな」
一度息を吐き出してからまた笑い出す。
「ほんとに覚えてない? 褒められたんだけどな」
「褒めた?」
それは社交辞令なのではないのか? それ以外で覚えていないほど印象の薄い男性を褒めることなどない。
「何を褒めたんですか?」
「今は? 何も感じない?」
今? 電話越しに話をしているこの状況で相手を褒めるものなど…。
「あ」
「初めまして。気に入られましたか?」
そうだ。思い出した。
「美術館で会った…」
「そう。思い出してくれた?」
一つの絵の前に、ぽかんと立ったままの私に声をかけてきた男性をやっと思い出す。あれは確か三日前の出来事だ。
立ちっぱなしは疲れるだろうからと、観覧用の椅子を指して座ってはと促してくれた人だ。なぜそんな事を言われるのかわからなかったが、どうやらその絵の前にかれこれ20分立ちっぱなしだったと話してくれた。
「あの時は、ご迷惑をかけました」
自覚はなかったとはいえ20分も一つの場所から動かない人間がいたら、そりゃ美術館の職員に誰かがいいにも行くだろう。
少しだけあの時は恥ずかしかった。うん。ありえないからね、普通。
「迷惑だなんて…あれだけ熱心に見てもらえば絵も喜ぶでしょう」
「はあ」
いや、違うだろ自分! そこで丸め込まれてどうする。
「いや、だから。どうして私の番号を知って」
「声が聞きたかったから。って言わなかった?」
うん。言った。確かに、そう言った。
「…入手経路を聞いているんです」
私の言葉が面白かったのか、またくっくっと笑う。
「雪乃さん。もしそれを知ったら、情報を漏洩した人をどうする?」
「人によります」
気に入らない人間ならこれは犯罪だと脅すくらいはしておく。もし友人であれば、そうだな高級ホテルのディナーでも奢らせるか。
何人かの顔を思い浮かべてそんなことを考えていると、電話の向こう側から答えが勝手にやってきた。
「香苗さん」
「…っ!!」
その名前に思わず息を飲む。
「ちなみに、雪乃さんの性格からいって、番号通知でしつこく電話鳴らせばそのうち出てくれるってアドバイスくれたのも香苗さん」
どこか楽しそうな電話の向こう側。
くすくす笑いながら「大丈夫?」なんて聞いてくる。
大丈夫なわけないだろう! 香苗さんは私の大事なお姉さま。血の繋がりは全くないけど、学生時代からずっとよき理解者でいてくれている。
あらゆる相談事に乗ってもらい、心配をされ、誕生日を喜んでくれる人。
人生が崩れたときに、私が一緒に崩れなかったのは彼女の存在が大きい。そして、強く逞しく図太く生きることを覚えた私の、ある意味、唯一のアキレス腱。
「どうして、香苗さん…いいや、木崎さんは香苗さんを知ってるんですか?」
額を押さえ、もうどうなっているんだと少しパニックでもある。
「名前、呼んでくれたね」
そんな混乱した思考に妙に色っぽい声が届く。
正直唸りたい気分だ。
いや。そもそもどうしてこんな得体の知れない男と話をしているのだ? 少し違うか、少なくとも香苗さんを知っている人である。
「香苗さんはあの美術館の生け花を一手に引き受けている人だから」
「花…ああ、そう、か」
香苗さんの職業だ。ありえるし、当然でもある。
私があの美術館に行ったのも香苗さんが「お花、見にきてね」と無料券を譲ってくれたからだ。
「でも、だから、どうして電話?」
「我慢の限界?」
質問を質問で返されたが、限界かどうかなどわかるかあほー。
片手で目頭を押さえ、特大のため息が出てしまった。
「呆れた?」
笑いを含んだ声が耳元をくすぐる。
「あの…」
「ん」
喉元まで出かけた言葉をかろうじて飲み込んだ。
「もう、寝てもいいですか?」
「ああ、そうだね。ごめん」
だめもとで言ってみたが、あっさりと許可が下りた。というのも変だが。
少しだけほっとして息を吐き出した。
「なんなら本でも読んであげようか? 今ここに一つあるんだけど」
「いりません」
「そう?」
これ以上は付き合いたくない。切実にそう思った。電話の向こうで「残念だな〜」とやはり笑いを含んだ声がする。
人をおちょくってるのか?
思わず握った携帯に力を込める。
「じゃあ、またそのうち」
その言葉に抗議しようと口を開けたが、続く台詞とあまり馴染みのない音に遮られた。
「おやすみ…」
低く、優しく響いた声の後。
電話口からする、それは間違いなく――キスの音。
「っ!!」
怒鳴ってやろうとしたときには時すでに遅し。電話は切れていた。
「あぁあ! 腹立つ!!」
人生で初めて携帯電話を投げつけたい衝動に駆られた。
後日。香苗さんに抗議したことは言うまでもないが、そこは香苗さん。
「ステキな人よ。何か問題でもあった?」
と笑顔で答えてくれた。
問題は特にない。ステキな人? うん、見た目は確かにそういえる人だったと思う。
「でも、でも、香苗さん。私の許可なく番号教えるなんて」
「あら。私たちにプライバシーなんて存在した?」
キレイな赤に彩られた唇が微笑みを作り出す。女王のようなその笑みに、ただの小市民でしかない私が敵うはずもなく。
「せめて、事前連絡ください」
言ってみたが後の祭りだ。
そこは香苗さんもわかっている。いや、彼女は間違いなく確信犯。
「会わないの?」
「会いません! あんな…」
「あんな?」
木崎さんを罵れるほど知らない。良いところも知らないが、悪いところも知らない。言葉に詰まる私を見て、香苗さんは実に楽しそう。
その笑顔が小憎らしい。
「あんな、わけのわからない人」
なんとか絞り出した言葉に香苗さんは声を立てて笑った。