だいたいそのくらいの決まった時間に電話をかけるのがここ最近の楽しみだ。
誰もいなくなった美術館で、一人電話をかける人間は結構怪しいかもしれないが、どうせ誰も見てない。だからこそ、ここを選んでいるわけだけど。
携帯電話を開いて、決まったボタンを押す。
この番号を教えてもらったときにすでに短縮に設定してある。
少しの間を置いて、コール音がその人を呼び出してくれる。
でも、繋がっているはずの向こう側にいる人はなかなか出てはくれない。
最初に電話をした時もそうだった。
「あの時は確か3分くらいだったっけ?」
延々と鳴らし続けて、さすがにちょっとだけ後悔して一度切ってはみたが、すぐに番号を教えてくれた女性の言葉を思い出して再びかけ直した。
「香苗さんは最強だよね」
耳元で鳴り続ける呼び出し音を聞きながら、女王のように微笑む女性を思い出す。
電話の相手はあの人とは全く逆で、どこにでもいそうな感じだった。世間の同年代の女性からしてみれば、少し地味でもあったかもしれない。
白いブラウスに紺色のカーディガン。黒い膝下のスカート。同色のパンプスに濃いベージュのトートバッグ。身につけてるものはどれもかなりシンプルだった。
どこかの会社のOLが昼休みに立ち寄ったのかと、そんな感じで別段、容姿に惹かれたわけじゃない。
でも、間違いなく一目惚れというやつだ。
自覚もしないまま、よく観察したのもだと自分でも呆れるくらい彼女を見てた。
彼女は美術館というものをよく知っている人だった。
入館する前にこの建物もよく見ていた。美術館は建物自体も作品の一つである。でも、それを観賞もせずにいきなり入ってくる人間は多い。
しかし、彼女は建物の外も中もよく見ていた。備え付けの家具や照明。もちろん絵画などの美術品も見ていたが、しかし彼女の目的は実のところそれらではないようだ。
美術館の中にある生け花。カタカナで言えばフラワーアレンジメント。どうやらこの館内に飾られた花を目的にきたようだ。
これはこれでとても珍しい。
そこで思い至ったのは、この花を飾った人の知り合いだろうということ。
でも、それらを思い出したのはもっとずっと後。この時はそんなことは考えもしなかった。
俺が彼女に惹かれたのは、彼女の心。魂と言ってもいいかもしれない。
美術館なんかにいるせいか、いつの間にか外見の良いものと中身の良いものが同列に配することがなくなった。いくら外だけきれいでもダメなのだ。そこに宿るモノも綺麗でなければ、魂を揺さぶるほどの感動を与えたりはしない。
彼女が俺に与えたものはまさにそれだ。
無名の作家が描いた聖母像。
それを見つめる瞳に宿る光があまりにも優しくて、愛されているのだと勘違いさえ覚えてしまうほど慈しみに溢れていた。
人が優しくなれるのは、その分だけ痛みを知ってるからよ。
もういない母の言葉を思い出し、この年でその心を手に入れるのにどれだけの痛みを伴ったのだろうと思った。思って抱きしめたくなった。その唐突な衝動に自分のことながら驚いた。
驚きはしたけど、不快ではなく。むしろどうしても近づきたくて、彼女が立ち去ってから接点を必死で見つけた。
それがあの最強の女王様だったわけで。
まるでひな鳥を守る親鳥のような香苗さんから、彼女のことを聞きだすのは精神的に大変なものだった。
名前は平原雪乃さん。
どうやら天涯孤独の身だと香苗さんの言葉の端々から察せられた。つまり、香苗さんは正真正銘彼女の親鳥なのだ。
長い話し合いの末、ようやく警戒を解いてもらい、住所は無理だろうから携帯の番号を教えて欲しいと頼んだときだ。
「そうねぇ、教えてもいいわ。でも一つだけ条件があるの」
にっこりと微笑んだ顔はどこか挑発的で、でもどこか優しくて、どうやら認めてもらえたらしいと思ったのは勘違いじゃないと思いたい。
念願の番号を教えてもらって、それでも一日だけ、かけるべきかを悩んだ。
初めてした電話越しの会話で告げたのは本音だ。
我慢の限界。
まだ鳴り続ける呼び出し音の向こうで、今日もきっと出るべきか否かを思い悩んでいることだろう。
本当に、自分でも信じられないくらいしつこく電話をかけている。彼女にはさぞ不審な人間に思われているだろう。
でも、あれから一度も無視される事はない。
かければ必ず出てくれる。
「気づいて、雪乃さん」
ここ最近、少しずつではあるが出てくれるまでの時間が短くなっている。
「もう取ってくれてもいい頃だよ」
聞こえるわけが無いが、向こう側に確実にいる彼女に声をかける。
俺は待ってるから。
だから、早く。
雪乃さん。あなたの声を聞かせて。
――ッ。
「はい」
「こんばんは。雪乃さん」
「またですか」
「またですよ」
小さく聞こえるため息に、自然口元が綻ぶのを感じながら、与えられた午前までの15分。今日は何の話をしようかと考える。
END