番外編  もう一つの答え
 その部屋はとても暗かった。
 夜だということもあるが光が少ないからだ。
 広い部屋だというのに燭台に乗った光が一つきり。あとは光源になりうるものなど何もない。
 暗く静かなその部屋に男が一人目を閉じ瞑想していた。
「いくら待っても望むものは来ないぞ」
 突然かけられた声にも男は微動だにしなかった。ゆっくりと瞼を持ち上げ声の主を見る。
 黒ずくめの衣装に黒い髪。まるで闇に同化してしまいそうなその人物は困ったように腕を組んで男を見ていた。
「次期卿が契約した。"フォンデスの宝冠"は手に入らない」
 静かに告げる言葉の意味に、男はふうと組んだ手の中にため息を吐き出した。落ち込んでいるような、ほっとしたような複雑な表情で目の前の燭台の火を見つめる。
「…お前にならできるのか?」
 静寂の中ぽつりと漏らされた言葉はひどく弱々しかった。もう四十も後半という年齢の男がまるで少年のようなか細い質問だった。
「俺にも無理だな」
 きっぱりとためらいもなく言い切った黒ずくめの人物に、男は首を横に振った。
「嘘だ。お前は今いる魔種の中でもかなりの古株だろう。できなくても方法なら知っているはずだ」
 何かにすがるような男に、黒ずくめの人物は少しだけ考えた。
「火球を知ってるな? 人間はあれと一緒だ。人の手によって生まれ、一度失われると元には戻せない。俺たちは生命を崩すことはできるが元に組みなおすことはできない。そもそも、契約によってお前たち人間に力を分けてもらっている俺たちが、源であるお前たちを作れるはずがないだろう」
 畳み掛けるような言葉に男は肩を落とし顔を覆った。
「…それでも私はリリアナを取り戻したかった…」
 この世で最も大きな力。それが吸血王と呼ばれたフォンデスが残した至宝。
 普通の契約魔には無理でも、その強大な力を持つ至宝があれば、もしかしたらなんとかなるのではないか。そして自分はその至宝をよく知っており、使用権をも持っている。
 彼女がこの世界を旅立ってからそれだけを考えた。
「人は生き返らない。だからこそ沢山のものを残していくわ」
 二人しかいなかった部屋に女性の声が加わった。男ははっとして声の聞こえたほうを見る。
「ラジェンヌ…」
 肩までの短い髪に凛とした目をした女性は自分の妹であった。
「兄上。リリアナはあなたに何も残してはいかなかったのですか? もしそう考えているのでしたらそれは大きな間違いです」
 揺るぎない口調だがその表情は今にも泣き出してしまいそうだった。
「リリーは兄上を愛していたし、死の間際にも兄上を想っていました。自分が死ぬことで兄上が自分を責めるのではと、それだけを心残りに逝ったのに。兄上はそんなリリーをまだ責めるんですか!?」
 静かに涙をためながら紡がれる言葉は、最後にはとうとう叫びに変わる。
「責めてなどいない! ただ戻ってきて欲しいだけだ!」
 妹の責めにフロストは机を叩き立ち上がる。
「もし戻ってきたとして兄上は言わずにいられますか!? どうして自分を残して逝ったのだと!」
「それは!………」
 言い合いの末に、男は妹の言葉を否定することができず声を詰まらせた。
 言わずにいられるだろうか? どうしてだと。戻ってきてもいずれはまた逝ってしまう彼女に。自分が先ならいいと思う。しかし今度は彼女が残される。そうなった時、彼女は自分と同じように自身を責めたりはしないだろうか?
「リリーは本当に兄上に何も残してはいかなかったのですか? 思い出も? 言葉も? 愛すらも?」
 同じ質問を繰り返す。静かな問いかけは男を深く考えさせた。
 暗い部屋を静かで重い沈黙が満たした。
 燭台の上で揺れる火と同じように男の影が揺れる。
 それはまるで男の気持ちをそのまま表しているように見えた。
「リリアナは幸せだっただろうか?」
 誰にともなく尋ねた。いや、それは自分に向けての質問だった。
「お前は幸せだったのか?」
 黒ずくめの人物の言葉に男は微かに笑った。悲しげにそれでもどこか幸せそうに。
「あたり前だ」
「だったら幸せだっただろう。好意を持った相手が幸せな時は自分も幸せなものだ。違うか?」
「そうだな…そう、だな」
 男は呟くと顔を覆って声を殺して泣き出した。そんな兄を妹が静かに抱きしめた。
 
 
 妹と黒ずくめの人物がその場を去ると男は重く息を吐き出した。
 そして何かを吹っ切るようにすっくと立ち上がり壁にある絵の前に立つ。
「リリアナ、こんな私でもまだお前を愛していてもいいだろうか?」
 答えは返らない。しかし男は絵を見つめふと笑った。
「クラス。いるか」
 契約魔は音も立てずにその場に現れた。
「私は罪を償う。そしてジュメル卿に仕えることにする。今の私にできることはリリアナを忘れずに彼女の分も生きることだ」
 晴れやかな男の表情に契約魔の青年はじぃっと見つめ口の端を上げた。
「そこにたどり着くまでずいぶんと時間を要したな。お前はいつも肝心なことに気がつくのに遅すぎる。だからジュメルには向いていないんだ。自覚しろ」
 契約魔の言葉に男はただただ苦笑した。
「その通りだな。私はいつも肝心なことに気がつかない。父の考えも、ラジェンヌの心配も――リリアナの想いも…」
 そして微笑を浮かべる女性の絵に目を落とす。その様子に契約魔の青年は微笑を浮かべた。
「ようやくお前に戻ったといった感じだな」
「クラス?」
「私は強欲な暴君と契約したわけではないということだ」
 微笑のまま男の浮かべた疑問に答えるとその場から消えた。
 
 
◇ ◇ ◇
 
 
「大丈夫かしら」
 ラジェンヌは父の契約魔と兄のもとを去った後、兄がもしかしたら最悪の道へと進まないかと気が気ではなかった。
「安心しろ。あれでも一応ジュメルの者だ」
 隣にいる見知った契約魔に励まされ、ラジェンヌは彼を見つめた。
 向けられる不安そうな瞳に契約魔は、あやすようにラジェンヌの頭を撫でた。
「必要だったんだろう? これだけの時間があいつには。お前の言葉を受け入れるのに。事実に目を向けるのに」
 ラジェンヌがこの国を離れた理由を知っている契約魔は、笑みを返す。
「リリーは兄の世界の全てだった。今ならわかるの…私もあの人を失ったら……いいえ、私には子供たちがいるからまだ大丈夫だと思える。けど…」
 もし、兄と同じように、これから幸せを築くときに伴侶を失ったとしたら。
 その痛みや絶望は想像などできない。
 したとしても意味のないことだ。
「無駄なことは考えるな。だいたいな、それほど心を捕らわれているなら、その時に自らの死を選ぶだろう」
 ラジェンヌは男の意見に思わず見返した。
「世界の全てなんだろう? 世界がなくなれば自分も消えるものだ。違うか?」
 そう尋ねる男の目はどこか遠くを、いや失った過去を見つめているようだった。
「フロストが死を選ばなかった時点で、自分で生きることを選択したんだ。だから奴は何があっても死んだりしない。この世界はまだあいつを受け入れている」
 そういうとラジェンヌを見る。ゆっくり微笑んで。
「だからお前もしっかり生きろ。ハルミスのために」
 その笑顔は自分ではなく、他の誰かを見ているような気がした。
「ええ。そうするわ。必ず」
 だからこそ、しっかりと頷いた。