――26年前――
いつもと変わらない朝。太陽は弱く、少し雲行きが怪しかった。
太陽が昇り、一日の仕事を始めようと執務室にいた彼は頭を抱えていた。
その原因は部屋にやってきた彼の愛娘の一言にあった。
「父上、私にあのピアスを譲ってください」
まっすぐに彼を見つめる娘の姿は、腰まである栗色の髪を結い上げ、こざっぱりとした服装に身を包んでいる。これから遠出でもするような姿だった。
朝の挨拶の後、単刀直入に切りだした娘が何を考えてそんなことを言い出したのか、抱えている問題上彼にはよく理解できた。
「…お前は、フロストは諦めないと、そう思ってるのか?」
「父上はあの兄上が諦めると本気で思っているのですか?」
質問で返された娘の答えに、彼は額を押さえ、静かなため息をついた。
「諦めないだろうな」
「ですから、私が"宝冠"をどこかに持って行きます。問題を解決するにはそれしかないことはわかっていらっしゃるでしょう?」
「フロストを説得するか、牢に入れるという解決策もある」
娘の意見に異議を唱えるように二つの提案をする。しかし、それは彼女の前では話にすらならないようだ。
「いまさら説得に応じるような兄ではありません。牢に入れるには殺人未遂を犯すのを待っていなくてはなりません。未遂ならともかく、本当に殺されたりしたらどうするおつもりですか?」
にべもなく、きっぱりと言い切った彼女の最後の言葉に、彼以外に反論する声があがる。
「俺がいる限りそれは無い」
突然聞こえた声の主を探してみても、部屋の中はこの親子以外存在していない。ただ声だけがどこからともなく聞こえてきているのだ。
しかし、彼女はまったく気にすることもなく、むしろ当然のようにその声に向かって話しかけた。
「魔種は万能ではないのでしょう? たとえ"宝冠"の力があったとしても歴代のジュメル卿が何人殺されたと思っているの」
その手痛い言葉に声はため息をついた。
「諦めろラーク。どう考えてもお前に勝ち目はない」
どこか笑いを含んだその声に、彼は眉根を寄せて文句を言う。
「あのな、お前は私の味方だろう」
「"宝冠"を譲ってくれますね? 父上」
確固たる決意で選択を迫られた彼はまた頭を抱え込んでしまった。
娘の言うことは間違いなく正論だと、父である彼には痛いほどよくわかっていたからだ。
そうしてしばらく悩み、やがて顔を上げると娘を凝視した。
「ラジェンヌ、お前の選択する道がどんなものかわかっているのか? この国を出るということは、お前に味方する者は一人もいなくなるということだぞ」
いつになく厳しい表情は父として、これからの道のりが決して平坦ではないことを案じていた。
娘もそんな父の心境をよく理解しているのだろう、真剣な表情で一つ頷いた。
「私は自分が世間知らずだと知っています。それでも、私にしかできないことなら私がしなくてはなりません。せめて父上が次期卿を決めるまで"宝冠"はここにはないほうがいいのです」
強くまっすぐに向けられる瞳は、これ以上何を言っても無駄だと思えるほどの決意に満ちていた。いや、信念と言ってもいいだろう。
その娘の姿に彼は思わず苦笑した。
「お前は本当に母親そっくりだ。無謀なことを理解したうえで平気でそれを実行しようとする。まったく、周りの心配をなんだと思っているんだか」
その言葉に娘は何も言えず、ただ唇を噛み締めた。
「我がままを言ってごめんなさい。でも、兄上は絶対に改心してくれます。ただそれには時間が必要なだけなんです」
大罪を犯そうとしている兄を庇う娘の姿に、胸のどこかで微笑ましいものを感じつつ、彼は一つ大きな決断を下した。
「…わかった。お前に"宝冠"を譲ろう。ただし一つだけ条件がある。私が次期卿を決めるまで、絶対に無事でいること」
どれだけ卑劣な決断を父に迫ったかを知る彼女は、父の言葉に深く頷き約束した。
「必ず。"宝冠"と私の命を全力で守り抜きます」
娘がいなくなった午後、細く頼りない雨が降りだした。
「雨か…」
まったく宛などない娘の旅に不安ばかりが募る彼は、今日の仕事になかなか集中できなかった。
窓に目をやると忽然と机の前に人が現れた。
「ヴィーテルを出たぞ」
突然出現した黒ずくめの男性がそう告げると、一つため息を吐き出した。
「そうか…どこへ向かうつもりだろうな?」
「さぁな。もう手が離れたんだ。今さら気にしてもしょうがないだろう」
深刻な表情で悩む彼に対し、目の前に現れた男性は実に平然としている。
その様子に彼は少しだけ非難の眼差しを送る。
「気になるのが親の情ってものだろうが」
人ではない男性に、人の持つ感情を理解しろというほうが間違いなのだろうが、そう言わずにはいられない。
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、男性はにやりと笑う。
「親の情ね。お前が心配すべきことはもっと他にあるんじゃないのか?」
男性の意味深長な言葉に彼は少し眉を寄せる。
「他に心配すべきこと?」
「お前、娘が一生独り身だなんて考えているわけじゃないだろうな?」
あまり直接的な言葉ではないが、含まれる意味を理解するのは簡単だった。
「そうか、結婚か…」
「どんな野郎に嫁ぐんだろうな、あの世間知らずのお嬢様は。子供なんか育てられるのかねぇ?」
「む…」
愛娘の婿を全く知らないまま、孫ができる可能性に気がついた彼は、また眉を寄せ低く呻いた。
そんな彼にくすくすと笑い、男性は窓の外を見た。
さきほどまで頼りなく降っていた雨は強さを増していた。
「さて、いつになったら止むのかねぇ」
何気なく漏らされた言葉にふと重さを感じ、彼も窓の外を見る。
「…いつかは晴れる。世の中そういうものだ」
窓の外を見る彼の真剣な横顔に、男性はふわりと微笑んだ。
「晴れるときは、すっきりと晴れて欲しいものだな」
そんな言葉を残して、登場と同じく唐突にその場から姿を消した。
「そうだな…」
降り続ける雨は決して優しくはないが、その雨もいつかやむ日がくる。
その日を信じて待つしかないのだと心を決め、滞っていた仕事にとりかかった。
夜には雨はあがり、足元を照らすには十分な月が空に浮かんでいた。